銭湯の歴史日本編 4
江戸庶民の社交場、湯女(ゆな)風呂と二階風呂
江戸時代の銭湯は朝からわかして、タ方七つ(午後4時)の合図で終わります。銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。やがて銭湯で、客に湯茶のサービスもするようになって、湯女が大活躍します。というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますが、タ方4時を境に、客をもてなします。
というわけで、湯女風呂は商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。
そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。堀丹後守の屋敷前にある銭湯というところから付けられましたが、ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼び、歌舞伎にまで取り上げられました。
こうして湯女風呂は栄える一方、全盛期は吉原遊廓がさびれるほどのにぎわいだったといいます。
一方、幕府は風紀上の理由から、たびたび禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。しかし、元禄16年(1703)江戸をおそった震災が引き金になって、湯女風呂は自然消滅します。
が、銭湯は相変わらず、江戸庶民のいこいの場として存在しました。天保のころ(1830〜44)に流行した「二階風呂」は町のサロンという雰囲気でした。浴客は、銭湯の2階にある広間にあがり、茶を飲んだり、菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しんだりしました。
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