銭湯の歴史日本編 3
江戸特代の風呂
江戸に銭湯がはじめてできたのはいつか、定かではありません。
『慶長見聞録』(1614年刊)には、天正19年(1591)伊勢与市という者が銭瓶橋(ぜにかめばし)(今の江戸橋附近)のほとりに銭湯風呂を建てたとあるのが、記録にあらわれた最初てす。徳川家康が江戸入りした翌年で、城下町も整っていなかったころです。それが慶長年間の終わり(17世紀初頭)には、「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まります。
当時の風呂は蒸し風呂の一種て、「戸棚風呂」という形式です。浴槽の底に膝をひたす程度に湯を入れ、下半身をひたし、上半身は湯気で蒸す仕組みです。そして、浴室の出入口に引違い戸を付け、湯気のもれるのを防ぎました。ところが、開閉が激しいと湯気が逃げてしまうので、工夫されたのが「ざくろ口」です。
これは、三方はめ板で囲まれた小室に浴槽を置き、出入口に天井から低く板をさげ、湯気の逃げるのを防ぎました。浴客たちはこの板をくぐり出入りします。ところで、ざくろ口と呼ぶようになったのは江戸時代特有の言葉遊びです。当時は鏡を磨くのにざくろの実を使ったので“かがんで風呂に入る(屈(かが)み入る)”を、“鏡鋳(かがみい)る”としゃれ、「ざくろロ」となったとか・・・。
また、今風なたっぷりの湯に首までつかる「すえ風呂ができたのも、慶長年間の末ころ。すえ風呂は蒸気ではなく、湯の風呂だから「水(すい)風呂」とも呼ばれ、一般の庶民の家庭に広まります。
当初は湯を桶に入れるくみ込み式でしたが、のちに、桶の中に鉄の筒を入れて、下で火をたく方法が発明されます。これは「鉄砲風呂」といい、江戸で広まります。一方、桶の底に平釜をつけ、湯をわかす「五右衛門風呂」は関西に多かったようです。
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