平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
地球規模のオイルショックで重油価格が高騰、廃油や廃材にまで高値が付いたころ、相模原の知人から油の収集運搬事業の話が持ちかけられた。急な相談だったが、人脈を駆使して希望通りの活動を行えるまでにこぎつけた。その後、産業廃棄物処理業の免許も取得、燃料の確保に万全を期した。
こうした第1次オイルショックの前後、コインランドリー事業の話が業界幹部の間で盛り上がった。正確には昭和46年、利用客の銭湯離れが顕著になってきたころだ。
当時、女性パートの時給は300円。家にこもるより寸暇を割いて稼ごうと、外へ職を求める女性が増えたが、その分、家事がおろそかになった。「お洗濯の時間がない」という声がちまたにあふれていたが、女性が外出することへの嫌悪感からか、こうした女性に手を貸す業種は風俗以外、皆無。それが30年前の社会風潮だった。
そんな折、「社員寮用に改良した洗濯機が大量にある」という情報が関西のほうから入ってきた。それらを活用すれば安価にランドリー事業を起こせるだろう。そこで洗濯機内にコインボックスを内臓したスマートな機種でスタートすることになったのだが、肝心の業界が、太鼓たたけど踊り手なし。
「皆が石橋をたたいて渡ってもウチは渡らない」という慎重派多数の中で、リスクを覚悟で早期開業を試みた猛者(もさ)連はまず手始めに、脱衣場と洗面台のところに2台ずつ設置し、様子を見ることにした。
その結果、女性の利用が多く、ちまたの声が正しいことがわかった。そこで女性用脱衣場の庭に仮小屋を造り5~6台設置。それでも利用者が多く、洗濯機が不足。今度は庭全体を壊し、小規模ながら米国並みのコインランドリーが創設されるまでになった。
私のランドリー開業もそのころで、玄関わきに8台設置した。他店から視察に来ても、慎重派はなかなか決断できない。親が許さない、庭に思い出の大木や池があり、全面改修工事に踏み切れないという事情のある者もいた。しかし、利便性を求める客の流れは静観できず、邪道だと冷ややかだった慎重派も、客の移動で目が覚めた。
ランドリー設置のピークは昭和62年。興味深いことに、山の手から始まり下町に広がっていくかに見えた流れが、そこで止まった。
「ウチの嫁は小遣い欲しさに外へ出て、1週間もためこんだ洗濯物をお金を払って洗っている!!」と、嫁姑の確執は下町に根強いようで、山の手と比較すると3割程度の普及率で終わってしまった。
現在、インターネット時代の客誘致が熱心に行われており、ポストランドリーの商品探しも熱を帯びているようだ。銭湯が“どっと混む”アイデアに期待したい。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2002年4月発行/55号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)