平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
相模原の湯屋を売り払い、立ち退く際に泣き叫ぶ子達を引き裂くようにトラックに乗せ、5年前に来た道を再び上って東京へ戻ってきた。
新宿での再出発の期待を胸に戻ってみれば世の中は第1次オイルショックの真っただ中。トイレットペーパーなどの生活必需品が不足、店の前には長蛇の列ができ、ガソリンや重油にも高値が付いた。年初めに1リットル8円だった重油が10月には26円の高値となり、供給量も半減してしまった。
当初は油を燃やす予定がないので大丈夫だと思っていたら、それまで重油を使っていた同業者が薪や廃油に殺到。これらにも高値が付くようになり、結果、明日の燃料にも事欠く事態になった。
暮れの押し迫った12月22日、銭湯業者は「全国経営安定燃料獲得総決起大会」を開催、一斉休業した。思えば昭和32年にも石炭値上げに抗議して東京、神奈川、千葉、埼玉の同業者が「燃料獲得総決起大会」を開いて、1日ストを決行したことがある。
重油が高騰すれば廃油も追随、廃材にも高値が付くようになる。これが長期にわたると、それまでのエネルギーに替わるものが生まれ、従来型の設備の見直しや放熱防止策が考案されるようになる。
過去10年周期で燃料騒動が起きているが、そのたびに燃料システムの改良がなされてきた。私が昭和59年10月に“廃油熱回収槽”を考案し、特許庁から“廃油処理装置”として認可を受けた背景にはこうした経緯がある。
そんな重油不足の最中、相模原の知人から「廃油がたくさんあるが、貯蔵先と売り先を至急紹介してほしい」という連絡が入った。油はのどから手が出るほど欲しいのがわれわれの業界だ。相模原の当人に危険物取扱免許を取得させ、タンクローリー車の手配を指示し、私は貯蔵タンクの確保とドラム缶置き場を探すことに奔走した。
大型タンクのほうは以前私が仲人をした相模原の組合長所有の「東湯」に設置してもらうことになり、危険物ということでなかなか決まらなかったドラム缶置き場も、やっとのことで当時の“モンキーダンス仲間”の休耕地を期限付きで借りられることになり、油の収集運搬事業を開始できた。
急ぐ仕事はとかく骨が折れるが、過去を振り返っても20歳で屋台を5台やり、29歳で突然「風呂屋を預かれ」、その2年後には「相模原で風呂屋を買え」、その5年後の昭和48年には「新宿へ上がってこい」、そして来た早々に油事業の開始だ。それまで考えてもみなかったことが突然わいてくる、まさに矢継ぎ早の疾風続きだった。
人間、生きているうちはいつでも臨戦態勢で待機することが肝要だ。そして、そういうときに生きてくる人と人のつながりの大切さを痛感した。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2002年2月発行/54号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)