平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


その昔、越後の西蒲原郡打越村に小林金吾という方がおられた。どこの家でも子だくさんで、その日暮らしの毎日。働こうにも耕地は少なく、村は困窮を極めていた。

そんな中、小林金吾は起死回生を図って一念発起。妻子を故郷に残し、明治6年に東京にやってきた。

昼夜を問わず働ける職を求めて東奔西走、あげく銭湯に行き当たる。全身を汗だくにして働き続けたかいあって、苦節5年で念願の独立。故郷から妻子を呼び寄せることができた。商売も軌道に乗ると、働き手も必要になる。男衆、おなご衆を故郷から続々と呼び、銭湯は勤勉な働き手を確保した。数年の後、店舗数もふくれ上がり、やがてそれぞれが独立。金吾の故郷からは仕事を求めて、われ先にと上京する者が、後を絶たなかった。

私も疎開でそのような方たちに会い、その目の輝きに憧れて昭和27年に上京した。10数年後に自前の銭湯を開業したが、当初、落ち着いた生活には程遠い。2人の子供を抱えて大変だったが、お隣に住む中村さんには、ご家族同様にかわいがっていただいた。

そんなある日、中村さんの娘で中学生になる幸江ちゃんが、私に、「オジちゃん、お仕事と子供はどっちが大切なの?」と聞く。
「ウチはね、お父さんが仕事を終えるとみんなで夕食をしながらワイワイ言い合うよ。でもオジちゃんとこは、別々だね」

私は愕然として身が固まった。傍らのお母さんが「オジちゃんたちはね、所帯を持ったばかりで一生懸命働かないと生活できないの。そりゃ子供たちも仕事もみんな大切にしているよ。だけど、子供たちのために今頑張らないと、将来苦しくなってしまうからね」

賢明なお母さんの助け船でドッと汗が流れた。だれだって親なら子供が大切に決まっている。お客様へのサービスに売上の向上、借り入れの返済と生活がらみの同時進行では二者択一の方式にはいかない。子供たちには済まないとは思いながら、額に汗して将来親子で笑える家庭を作ろうと夢見ているのだ。

「今は夢を見ても実現しそうもないので、会社人間よりマイホームパパが増殖している」と、ある新聞に載っていたが、それが本当なら、今の人たちはなんてあきらめが早いのだろう。昔も今も知恵と額に汗して踏ん張ることで、夢に近づけるということに、違いはないはずだ。世の中に夢がないからこそ、自分の心の中に夢を持とう。そう心がければ必ずチャンスはつかめる。そのときのためにも、人とのお付き合いを大切にしなくては。

ヨチヨチ歩きの2人の子供を持つ風呂屋の家族と、隣家のご家族の幸せな二人三脚。ずいぶんリードしていただいたものだ。

女房の実家の母も農閑期には子守りに来てくれ、頼もしい援護射撃。相模原浴場組合に加盟して同業者との付き合いも深まっていった。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2000年10月発行/46号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)