平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


“お酒は手っ取り早く飲ませ、安く新鮮なツマミも早く出す”
店名も「盛升(さかります)」に決まった。
その日はいつもの燃料集めから始まり、2時には店を開け若衆とバトンタッチ。“盛升”の法被(はっぴ)に着替え、居酒屋の親父に早変わりすれば、いよいよ居酒屋の開店だ。

待望の第1号客は湯上がり美人。「焼き鳥10本の持ち帰り」という。“店開けの女性客は縁起がよい”と喜ばれるが、新規開店時の持ち帰りは歓迎されない。同業者が商品を観察するパターンだからだ。案の定、店内をキョロキョロ見回し、焼き台の前を動かない。やっぱり来なすったな!!

一応注文の品は無事持たせると、甘い香りを残して暖簾(のれん)の外へ消えていった。ホッとする間もなく、入れ替わりに3人連れの男性客が滑り込んできた。
「ビール大瓶ドーンと2本、キリンでな」
「申し訳ない。ビールは置いてないんで」
「ン? お前ンとこ飲み屋じゃないのか」
「ウチは酒屋直営でウチの酒だけなんで」
「おもすろい若衆だナ。升とトンザス3つ、早いとこ」
「アリガトウ!!」
調子をつけてショウガ、ニンニクのタレと一緒にレバ刺しの一丁上がり。

「俺たちナー、キャタで戦車造ってゼニもらって、ビール飲むならキリンと教えられているだ」
あっそうか! この町は三菱キャタピラで成り立っているようなもの。働いている人たちもそのように教育されてんのか。

その日は初体験ばかりで汗もかいたが勉強させてもらった。そして、銭湯と居酒屋との相乗効果か売上は徐々に伸びていった。

それでも、若衆の給料を稼ぎ出すために、2歳の長女、1歳の長男を保育園に預け、その足で近くの協和古材店に勤め始めることにした。

当時の相模原近辺では建て売りアパート、牛舎、鶏舎などの材料はすべて古材をひいて、タルキや角材に再生させたものを使用した。古材はひくそばから売れるから、会社は活気づいた。

建て替え中の東京の学校や大きな病院へ、柱や梁(はり)などを引き取りにゆく。トラックに満載して会社に戻ると、今度は自分のトラックに鋸屑(のこくず)や柱の引き落としを積み込み、帰路につく。途中で保育園に寄り、助手席に子供2人を乗せ家に戻ると、今度は着替えて居酒屋のおやじになる。

夜は何時に暖簾を下ろそうとも翌日は7時半起床。女房は若衆の仕事をチェックしながら居酒屋と銭湯の掃除などをし、銭湯の開店までに居酒屋の仕込みを終えておく。

今、思い出すとかなりハードだが、自分たちの夢だったから苦にならなかった。妻との抜群の二人三脚、また周囲の皆さんの応援が、明日への力となったのだ。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2000年8月発行/45号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)