平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


所帯を持ち、現在の宝湯のオーナーの中島様や中野浴場組合の佐藤先生にご厄介になって2年目を迎えた昭和43年11月、長男が生まれる。その数ヵ月前に浴場専門の周旋屋から「相模原に大きな湯屋が売りに出ているがどうする?」という話が持ち込まれた。

「随分田舎だな」と思ったが、「何はともあれ見ることが先決だ」と、女房には内緒で行ってみて驚いた。三菱重工業を中心とする新旧混合の活気ある街で、工場や社宅が雨後のタケノコのように建てられ、槌(つち)の音を響かせながら土煙を舞い上げている。「これから発展する街だ。湯屋もこの1軒だけだ。一丁打って出よう」と考えて金銭面を詰めたところ、少々建物を手直しして1000万円くらい。板橋のアパートを処分すれば可能であり、決心がついた。

だが、これまでよくして頂いたオーナーの中島様と離れることが気掛かりで、早速おばあちゃんのところへご相談に伺った。
「自分のことは自分で決めるしかない。それに大事な時には二人で来るものだよ。カアちゃんどうしているの、もう生まれたのかな」
「真近のようです」
「そんな状態で動くのは無理だ。それに湯屋のジンクスで、都落ちして東京に戻った人はいない」

しかしこの時、すでに手付金、アパートの売却などの話が進んでいた。ご相談するのが少々遅かったわけで反省する暇もない。その一方で、産み月のほうも待ってはくれない。近くの産院を予約したが、遅れることも予想して引っ越し先でも予約した。この件に関し相談しなかったこともあって、女房は一切口を挟まない。
「今回は痛い目に合うぞ。褌を締め直さないと駄目だ」

10月の晦日(みそか)が来た。子供はとうとう生まれず、1歳半の長女と産気づきそうな女房を車の荷台に乗せ、わずかな所帯道具を持って新居へ向かうが、なぜか気が重い。ご厄介になった中島様ご一家に十分なお返しもできず、後ろ髪を引かれる思いで多摩川を渡った。運転席の小窓から荷台を覗くと女房と子供が抱きあって丸くなっている。ほこりにまみれて落人(おちうど)そのものの姿だ。中野に落ち着いていればまあ普通の暮らしができたものを……。一体何が待っているのだろう。

ようやく辿り着いたわが家は相模原市上溝の「上溝浴場」。建物はかなり古く、流し場の棟が垂(たる)んで屋根がつり橋のようになり、少し危険だ。ここを補強し、什器(じゅうき)備品を交換する工事に10日は要した。

知らない土地で職人集めに苦しんだが、幸い隣が左官職の中村幸作さんご一家で「オレがヤンベからおじさん他のことヤンベな」と言って頂いた。“地獄に仏”とはこのことだ。行った先々に仏様が現れる。今以上に周囲を大切にしなきゃあ罰が当たるぞ……。

中村ご一家指揮の下、夜を徹した突貫工事でようやく普通の銭湯ができあがった。屋号も「大黒湯」と改め、家賃のいらない自分株の店舗第1号の出発である。


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2000年2月発行/42号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)