平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
結婚式も挙げずにいきなり初体験の銭湯稼業、女房にしてみればひどい話だ。「落ち着いたら写真でも撮っておこう」と、開店から半年後、新宿の結婚式場三福会館(当時)に出掛けた。ところが貸衣装一式と写真を頼んだら、「そんなコースはございません」とにべもない。「そこをなんとか……」。押し問答をしていると、たまたまオーナーが出社された。
受付嬢の説明に、オーナーは「よくわかった。明後日の午前中に来なさい」と命令口調だ。わが家へ帰るとすぐに、“臨時休業”の張り紙を出した。「アッ、そうだ、開店以来休んだことがなかったね!」。無我夢中で駆け抜けた半年間は、休みなど眼中になかった。
当日勇んで出向いた三福会館、新緑の神田川は陽光を受けて、まばゆいばかりの光を放っていた。
着替えには大変苦労した。数日前流し場で、桶洗機を持ったまませっけん水に足を取られて転倒し、ひじを強打したのだ。傷口が大きく開いて、腕が上がらない。別室の女房も気まずい思いをしたらしい。妊娠3ヵ月、気疲れと仕事疲れで体中ばんそうこうだらけ。二人とも満身創痍の、疲れた新婚さんだ。
手痛い写真撮影も無事終了し、ホッと一息ついていたときのこと。係の人に別室へ来るように案内され、ふすまを開けて立ちすくんだ。料理のお膳が並び、その奥にはなんと故郷の両親が座っているではないか。こんなはずはない、おれ、どうかしてるぞ……。
「どうしたの。突っ立ってないで早くお入りなさい」
その言葉でわれに帰った。奥に座っているのは両親ではなく、オーナーご夫妻だったのだ。
「大変だったね。余計なことだが、私たち夫婦が仲人をするから、今日はゆっくりしていきなさい」
目頭が熱くなり、お礼の言葉も出ない。隣の女房は涙を拭いている。
宴席が始まり、ご夫妻の苦労話や事業の発展の経緯、人材の開発、登用法など貴重なお話を伺った。本では読んだことがあるが、実際にお会いし身近で聞くと、その迫力に圧倒された。「義理や人情で働く人など、探すほうが無理というものだ。しかしね、男なら恩義を受けたら身体で返せ、だ。何かの役に立つかもしれないよ」
この“男なら恩義を受けたら身体で返せ”という言葉は、今でも私にとって貴重な財産である。
秋には長女が生まれ、多忙な生活に拍車がかかった。朝一番に哺乳瓶とおしめ持参で燃料集めに出掛ける。オート三輪の助手席に脱衣かごをくくり付け、そこに子供を寝かせて工事現場回りだ。廃材を積み込む作業中は泣き通しで、終わったころにはほこりで目と鼻を真っ黒にして、泣き疲れて眠りこけている。
眠っているパンダを見ると、疲れが取れるが心も痛む。自分を育ててくれた両親への感謝の念がわいた。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は1999年10月発行/40号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)