「この辺り一帯は野原で、月がきれいに見えたんだ」
月見湯温泉がある下高井戸駅と桜上水駅の区間の南側には、かつて財閥の三井家が自家用牛乳を確保するために作った「三井高井戸牧場」があった。そのため、昭和30年代後半までは見晴らしのいい開けた土地が広がっていたという。
同湯は元々別の屋号だったが、昭和35(1960)年に現在の建物へ建て替える際に屋号を改めることになり、現在の店主・近藤芳之さんのお父様とお客様の会話によって「月がきれいに見えるから月見湯にしよう」と思いついたことから「月見湯」が誕生した。そして後に「月見湯」から「月見湯温泉」になり、多くのお客様が集う銭湯として地域に愛されている。
今回のTOKYO銭湯物語は、世田谷区赤堤にある月見湯温泉を営む近藤芳之さんの銭湯物語をお届けする。
京王線・東急世田谷線の下高井戸駅から徒歩6分、月見湯温泉は下高井戸商店街を通り抜けた先にある。自転車での来訪者も多いが、店前には駐輪スペースがあるため、親子連れの大きな自転車でも利用しやすい。
■お風呂の種類は?
月見湯温泉にはハイパージェット、座風呂、電気風呂、水風呂、サウナ、そして天然温泉風呂がある。天然温泉以外のお風呂は42℃前後で、湯につかると次第に皮膚が少し濃いめのピンクになるくらいの、寒い季節は一番最初に入りたい温度。ジェットや電気を体の凝った部分にあてて心地良い刺激を受けた後に、お待ちかねの天然温泉へ移動するパターンをオススメしたい。天然温泉はメタケイ酸、フェロ、フェリイオン(鉄分)を含み、湯触りは柔らかく、しっとりする。10分くらいはつかっていたいと思う温泉風呂だ。多種多様なお風呂があるため、季節やその日の体調に合わせて、「どのお風呂から入ろうかな?」と考えるのも楽しみの一つだ。
■サウナは?
昨今のサウナブームで、月見湯温泉もサウナ利用者が増えている。以前は見かけなかったサウナハットを被っている方もいれば、水風呂に沈んでしまうのでは? と思うくらい、首までどっぷりつかっている方もいる。「サウナ=おじさんの嗜好品」と感じていた以前とは全く違う光景だ。コロナ禍で会話自粛中のサウナ室は静かで、この空間をどう楽しむかも、自分の力量を試されているように感じる。テレビから流れる話に心の中で相づちをうってみたり、無心で5分計を見つめてみたりと、各々が過ごしている密室。いずれにしても皆「ととのう」を求めているのかな? とサウナ初心者の筆者は思った。
■まさかの温泉⁈ 父と息子の奮闘物語
月見湯温泉は、近藤さんの祖父母が所有していた銭湯を、近藤さんのお父様が電気メーカー勤務を経験した後、昭和35(1960)年に引き継ぎ、わずか90日間で現在の建物に建て替えた。近藤さんも会社員を経て月見湯を手伝い、三代目となった。
「子供は自分だけだったから、銭湯を継ぐことは自然な流れだった。父が中心となっていた頃は5年サイクルで浴室の中普請をしていたので、常にきれいなお店で繁盛していた。けれど家庭風呂の普及と共にお客様の数が減っていることを感じて、父と知恵を絞ってみよう、ということになった」
千思万考の過程で近藤さんは井戸水に着目した。
「使用していた井戸水は、タイルについた濃い茶色の汚れが落ちにくい。酸が強い洗剤を使わないと落ちないほどだった。これは水質に何かあるのか? と思い、2つある井戸水の水質を温泉かどうか調べてみようと思い立ったんだ」
それからすぐ行動に移した近藤さんは、財団法人中央温泉研究所へ「うちの井戸水が温泉か調べてほしい」と相談する。その時対応してくれた相手が所長の甘露寺康雄氏だった。この一本の電話で近藤さんの熱意が伝わり、水質検査は行われた。水質検査の結果、毎日沸かしていた井戸水がメタケイ酸、フェロ、フェリイオン(鉄分)を含む温泉成分であることが証明された。温泉と認定され、温泉登録時に温泉名をつけることを知った近藤さんは考える時間も少なく「月見湯に温泉をつけて月見湯温泉で登録したら?」という甘露寺氏からのアドバイスにより、平成10(1998)年、現在の「月見湯温泉」になった。この温泉の評判が広がり、減ってしまったお客様が戻ってきて、再び老若男女が集う銭湯となっていった。
■銭湯を継いで、今、何を思う?
近藤さんとお話をしていると「〇〇さんっていうお客さんが~」と、訪れるお客様のことをよくご存知だ。
―お客様の名前はどうして知っている?
「常連さんが多くて、その人たちの絆が強くって、自然と名前を知る感じ。常連さんのグループが《夕方の部》と《深夜の部》と2部制になっていて、各グループの飲み会があり、そこで話をして親睦を深めている。家族連れで参加する方もいて、アットホームな感じで楽しいよ。常連さんが幹事の年間行事もあるしね」
―年間行事とは?
「新年会にはじまり、花見、中元会、忘年会、ゴルフコンペとか。父の代からの常連さんも多いね。以前は近所のお寺でお花見したり、シシ鍋を食べる会があったんだ。お寺の本堂で食べるシシ鍋って想像できないよね? 六甲で捕れた新鮮な猪肉を鍋でいただいておいしかったなぁ」
常連さん同士の交流が、銭湯という枠を超えて、地域社会の絆の深さにつながっていると感じる。
―最後に、月見湯温泉を経営する楽しみとは?
「毎日、いろいろなお客さんが足を運んでくれて楽しい。たまにマナーやお互いの気遣いの相違で心的な負担があることは事実だけど、そんな心的負担や緊張感をほぐしてくれるのも、お客さんと交わす会話かな。フロントにいると、小さい子供から大人まで何か一言話してから帰る方が多いから飽きることもないし、たくさんのお客さんに支えられていることを日々感じる。こうして月見湯温泉を営むことができるのは、お客さんと家族の支えが全て。心からありがたいと日々感謝している」
近藤さんは楽しそうにお客様とのエピソードを語っていた。その姿を見て、お客様の月見湯温泉愛と、近藤さんのお客様愛を感じた。
ここ数年、コロナ関連の規制で人の繋がりが薄くなってしまったが、月見湯温泉ではその影響は感じられない。
「今日、誰とも話していない」と気が付いた時、「なんか淋しい」と感じた時は、月見湯温泉ののれんをくぐってみてはいかがでしょうか? そこには人のあたたかさもありますよ。
(写真・文:銭湯ライター 山村幹子)
【DATA】
月見湯温泉(世田谷区|下高井戸駅)
●銭湯お遍路番号:世田谷区 31番
●住所:世田谷区赤堤5-36-16(銭湯マップはこちら)
●TEL:03-3321-6738
●営業時間:15時半~23時
●定休日:月曜、火曜
●交通:京王線「下高井戸」駅下車、徒歩6分
●ホームページ:https://tsukimiyu.com/