やりたいことが見つからない若者が、自分探しで右往左往するのは今昔問わずよくあることだ。例えば筆者の身近でも、学生時代の友人Aは大学に6年通った後にギター職人になり、その後ペット屋を経て、農業を営むようになった。友人Bは就職難の中、とりあえず入った宝石屋を1年でやめて、バイク便で小銭を貯めた後に海外を放浪し、今は看護師だ。もちろん就職して同じ会社で働き続けている友人も多いのだが、自分に適した職業や会社に出会うのはなかなか難しい。
小野美由紀さんの小説『メゾン刻(とき)の湯』(ポプラ社)に登場する主人公も、就職活動をする気になれずに大学を卒業してしまった、さまよえる若者の一人だ。物語は古びた下町銭湯「刻の湯」のシェアハウスを舞台に、ちょっとクセのある若者7人の葛藤と成長を描く。
物語の中でもSNSの話題が取り上げられているが、ネットが普及した現代社会は確かに便利だ。SNSに登録すれば容易に他人と繋がることができ、Googleは最適な結果を瞬時に探し出して提示してくれる。便利ではあるが、そこに広がるのは希薄な人間関係と効率重視の殺伐とした世界のようにも思える。また、ブラック企業や働き方改革といった言葉がよくニュースで取り上げられるように、厳しい労働環境にさらされている人は今も多い。便利になっているようで実はそうでもなく、心身は絶え間なくストレスにさらされ疲弊しているのが現代人という見方もできる。
そんな現代人が気軽に息抜きできるのが銭湯だ。そこには年齢も職業も関係ない裸の人間が集い、大きな湯船に肩までつかればストレスも発散できる。ほとんどの家に風呂が普及しているにも関わらず、今も500軒を超える銭湯が東京で営業しているのは、そんな魅力があるからに他ならない。
著者の小野さん自身も、銭湯が大好きで、風呂のない家に住んでいた時は毎日のように通った経験を持つ。近所の銭湯の相次ぐ閉店を経験し、銭湯文化が残って欲しい、時代を超えて大切なコミュニティである銭湯の文化を描きたい、と思ったのが執筆の動機だという。実際に銭湯で働いた経験を執筆に活かしたというだけに、銭湯に携わる登場人物たちの描写もリアリティにあふれており、銭湯ファンならずとも読み応えがあるだろう。
さて、物語に登場する若者たちは、差別や偏見といった「壁」にさらされているが、「壁」と折り合いをつけ、社会に居場所を見つけようと、もがく。実際、社会で居場所を見つけるのは大変なことだが、この物語を読めば「疲れたらとりあえず銭湯に行ってみようかな」と思う人も多いはず。筆者はこの物語の根底に「銭湯は現代人のアジール(避難所)なのではないか」という著者のメッセージを感じる。
ところで、最近は銭湯に興味を持つ若者が増え、ちょっとしたブームともいえる状況だ。とはいえ、それがストレスを抱えたアジールを求める人々の増加、つまり閉塞した社会状況を映し出しているとすれば、手放しで喜ぶわけにはいかないのだが……。何はともあれ、人間関係や仕事に疲れたら、まずは銭湯へ行ってみよう。
(文・編集部)
書名:メゾン刻の湯
著者:小野美由紀
判型:四六判/279ページ
定価:本体1500円+税
発行:ポプラ社
著者プロフィール
小野美由紀(おの・みゆき)
1985年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学専攻卒業。クラウドファンディングで「原発絵本プロジェクト」を立ち上げ、絵本『ひかりのりゅう』(共著、絵本塾出版)を出版。著書に『傷口から人生。』(幻冬舎文庫)、『人生に疲れたらスペイン巡礼』(光文社新書)がある。本書が初の小説となる。