平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
近代の銭湯事情を区切りよく分けるなら終戦を挟んだ前後の各20年。そして、それから20年ごとに前進していくとわかりやすい。
まずは戦前。銭湯先達人を頼り、まず生活のため上京。途中、兵隊に徴用され復員し疎開などに翻弄された「混乱期」。そして敗戦後。疎開先での屈辱をばねにした上京組、煙突を守り家族を守った防空壕組、先達に追いつけ追い越せ組が入り乱れて復興に汗を流し、わずか400軒を7倍に成長させた「血と汗の復興期」(昭和20年~30年代)。それ以後、40年代から物価に対する湯銭の右肩下がりが顕著になった「銭湯過剰期」。さらに銭湯の存在が地域住民の衛生拠点から健康増進拠点へ移行した「現在」に大よそ区別することができる。
「混乱期」「復興期」「過剰期」とそれぞれの時期、事が起こるごとに「おらが親分達」を押し立てた北陸銭湯人の絆や人問模様は、すでに語る御仁も少なく、記憶や年代もごっちゃで整理も困難を極める。しかし、複数の関係者の話を総合すると当時の様子が見えてくる。例えば、古い年代ほど出身地を頼り、その兵隊さんが多ければ楽に事が進む。しかし、まとまっていないお国では運動員を走らせ推薦人確保に血眼になって苦労する。そして「出たい人」は潰され、「出したい人は家族が反対」も世の常である。
また、選ばれる親分にも豊作と不作の年があったそうで、そんなときには業界割れを防ぐ中間色の候補を推挙し各方面を治める。しかし、当人がアッチ向いてホイ、コッチ向いてホイの八方美人では仕事がおさまらない。そして、野心家のカリスマ親分が現れると「力には力。知には知で」と対立候補が現れる。そうすると末は叩きあいとなって、業界にプラスになることは何も残らない……など。
また、当時の銭湯業界で事を進める場合に大事なのが「諜報」。これに神経を尖らす必要があった。銭湯人の世界はこれまで述べてきたように北陸三県の出身者や関係者で大よそ固められ、その絆もしっかりしている。だから、主導権争いなどで、相手方の情報をキャッチするのは「人と国」「縁者」「ブロック」「無尽講」などのつながりを熱知した人でないと勤まらない。そのため「銭湯人はみな縁者」をキーワードに会合などでは言動に注意しないと失敗する。どこでどう話が伝わるかわからないからだ。
さて、このような業界内の諜報に重宝されていた人達が当時いた。風呂屋に出入りしていた「銭湯御用達人」である。この人達は謀報だけでなく、北陸人同士が縁組する「北陸銭湯ハーフ人」誕生を演出した影の仕掛け人ともなったのである。この銭湯御用達人については次号にて。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2004年8月発行/69号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)