平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
「毒消し、いらんかねぇ~。赤丸だの金証丸だの買うてくんなさいねぃ~」紺のかすりの着物に手甲脚絆(てっこうきゃはん)、足にわらじ、大きな菅笠をかぶり紺の大きな風呂敷包を担いで、一軒一軒薬を売り歩く、ご存じ越後(新潟)の毒消し売り。この歴史は天保13年頃に始まった。角海浜(西蒲原郡巻町)が発祥の地で、当時は女性の出稼ぎが禁止され行商は一切男の仕事だった。明治になって、この制度が廃止され鉄道が発達すると行商は女性の仕事に移り、その数は急速に増えた。最盛期の大正末期から昭和にかけて三千数百人に達し、春になるとこの地域の娘の姿が見られなくなったという。出発日には旅の安全を祈願するため、全員で弥彦神社に参拝し、各々組に分かれ親方とともに各地方へ行商に行った。
越中(富山)の薬売りは2代目城主前田正甫候から「反魂丹(はんごんたん)を売るのじゃ」の一声で、松井源エ門が創業し広めたという。柳行李(やなぎごうり)を背に一軒一軒丹念に回って薬を頂け、使ってもらった後で代金を取る“先用後利(せんようこうり)”の実利性と、律儀で誠実な応対で広く浸透した。出身は富山周辺の農村や射水(いみず)、高岡、滑川、水橋などの町場からも集められ二千五百余人に達した。また、富山の氷見(ひみ)地方からは小間物売り・鏡磨きの出稼ぎも多かった。鏡磨きは当初、神社仏閣から始まったが、そのうち職人が銭湯の鏡磨きに出入りをするようになり、この人達が人手の足りない銭湯に地元の人達を斡旋した。これも江戸の銭湯人に北陸出身者が多くなった理由の一つかもしれない。
能登からの出稼ぎは主として農閑期にそば打ち職人として出たり、海産物を関西方面へ運んでいた。明治維新前後には銭湯人のルーツになる労夫達が七尾街道を経て北国街道回りで江戸に登場。羽咋(はくい)郡出身で浅草に居を構えた富山武松氏、同じく羽咋郡出身で麹町に亀の湯をおこした寺田次郎作氏などがそうで、ともに近隣の人達が続々とその門を叩いて一派を起こし盛況を極めたという。多くの者に慕われ、働き手を受け入れた越後西蒲原郡打越村の小林金吾氏も同時代と聞く。高岡・新川・小矢部の出身者も冬期限定の釜焚きや水汲みの出稼ぎを経て、次三男は東京に定着した。加賀出身の銭湯人の親睦団体「東京一八会」を起こした加賀宮地の大丸氏も、その時代の一人である。
薬売りに代表される北陸の人々の出稼ぎ。今はもう行われていないがその昔は、安宿の裸電球の下で回収した薬を新しい袋に詰め替えていた。その姿には、あこぎさと侘しさが感じられたはず。しかし、一方で貧しい土地の出身ゆえ他国へ出稼ぎを余儀なくされた祖先の血は、売薬に限らず実業の分野にも幅広く受け継がれた。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2003年10月発行/64号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)