平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
「火事と喧嘩は江戸の華」が代名詞の江戸の街には上水路が整っておらず、その水不足から幕府は庶民に内風呂禁止令を出した。
おかげで銭湯は思わぬ繁盛を呈したが、その裏側を仕切る労働は大変なもので、朝から晩まで湯・水の確保は難儀を極めた。幼稚な山井戸は十分な水量が湧かず、釣瓶によるくみ上げの労力は力自慢の労夫達に頼ったが、その人達を束ねる親方衆になぜか北陸人が多くいた。
当時、水は貴重であって銭湯の従業員が手桶にくんだ岡湯(上がり湯)を渡し、お客さんは流し場で体を洗っていた。それでも、湯水のごとく使うその量を補う労夫を確保する事には苦労する。いきおい故郷の若者を呼び寄せチーム作りに奔走した。
そんな頃、入浴上の乱れと風紀上から「入込湯・薬湯禁止令」が出された。うま味のなくなった銭湯は利幅減から“湯屋株”を手離すオーナーが出始め、入れ代わって裏方の湯屋番が表舞台へと登場した。湯屋株とは、銭湯の営業権で当時の譲渡価格は三百両から五百両、高価なものは一千両であったという。また、普通湯屋株は自分で所持して営業するが中には二株、あるいは数株所持し他人に貸して月々に名義の賃貸科(揚銭)を取った。このような人を“仕手方”といった。
「入込湯・薬湯禁止令」で利用する人の減った銭湯だったが、湯屋株を手に入れたり、仕手方となった北陸人の実直な勤勉さによって江戸の銭湯は切り盛りされ生き残った。現に銭湯を切り盛りした人々は能登の海産物、氷見の反物、富山の売薬、塩、鏡磨きなど行商・出稼ぎで養った辛苦をもとに、安定した湯屋稼業に突進した。俗にいう外売りから内売りへの見事な転身である。当時の行商人は、安宿の確保やその日その日の天候に左右され、商品の新鮮さを保つ流通にも大変苦心した。そのため、江戸で一旗揚げるまでは、故郷に戻らない決意で家族と水盃を交わして出達したという。
北陸3県の銭湯人のルーツを辿ってみると面白い共通点が見えてくる。時も明治の初期、石川県は加賀方面と能登方面の2ヵ所に集中し、富山県は呉羽山を境に黒東上市地区と高岡小矢部氷見地区の2ヵ所、新潟県は西蒲原郡の信濃川支流地区と上越魚沼郡の2ヵ所に集約され、それぞれが縁故関係に発展して一派を成し、親分・子分・兄弟分として戦前戦後の銭湯復興の原動力となった。
断っておくが3県だけが、銭湯人でなく福井県・関東や江戸からの銭湯人もおられることはいうまでもない。いずれ、ご紹介致します。
次号はお国柄を継承する出稼ぎ魂について。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2003年8月発行/63号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)