平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


今から400年前、家康が江戸に府を築き、諸国からの移住者が開墾の街にあふれ返った。そんな人々に団らんと娯楽を与えるために、自然発生的に銭湯が生まれ、伊勢国の与一なる人物が江戸発一番の銭湯を開いた。

“火事と喧嘩は江戸の華”といわれるが、この言葉には銭湯繁盛の一因が埋もれている。江戸は風が強くて埃が激しい。人々には毎日入浴する習慣があったが、たび重なる大火による薪・炭の高騰や井戸掘り技術の稚拙さもあって江戸は慢性的な水不足であり、大町人でも内湯を持たなかった。住宅地での内風呂禁止令が出された時代もあって、銭湯は江戸の民の生活に密着し、世間の噂をいち早く知る場にもなった。

戯作者西沢一鳳の著した『皇都午睡』に「下にも二階にもその辺の寄席とて噺、講釈、見世物の番付を張り、どこで切ったのはったの、火事、芝居の噂を聞こうなら銭湯に増すことなし」とあるように、銭湯は街中の情報源であり、文学・芝居など多くの庶民文化を生んだ。

入込(いりごみ)湯の登場にも、そんなメディアが飛び付いた。入込とは混浴のこと。当時の湯屋は浴槽・流し場が一つしかなく、男女が別々の日に入浴する「男女入込湯」だった。この区別を正しく行っている湯屋だけが営業を許可されたが、このようなきまりごとは崩れやすいもので、客が少なければちょっと隅に入れてもらう……ということが昂じて、混浴が行われていたようだ。

江戸の大衆風俗を紹介した山田桂翁の『宝暦現来集』には、「もっともこの入込湯は毎夕七ツ時(※)より男女入込湯ゆえ、さてさて騒々しいこと」とあり、公然と営業していた湯屋もあったことがわかる。風紀上好ましくない者が出人りし、ひそかに刺激を求めて出かける者も少なくなかった。入込湯も、また江戸前期の湯女風呂も、昼間の銭湯の閉店後であったが、狭い浴槽、流し場に押し掛ける浴客を、湯屋も内心では歓迎していたのかも知れない。

薬湯の名目で入込湯方式で深夜営業する湯屋も出た。火災を出して湯屋薬湯禁止令が出るが、もぐら叩きの状態だったようだ。

江戸時代の主な湯屋の流れをみると、天正19(1591)年、江戸に初めて銭湯登場。寛永10(1633)年、湯女風呂流行し吉原衰退。明暦3(1657)年、正月江戸大火湯女大検挙、湯屋200軒取りつぶしで湯女勝山吉原入り。文化3(1807)年、江戸大火後に薬湯・入込湯が現われる。明治5(1877)年、東京府令で入込湯禁止……となる。

次回は、今に連綿と続く北陸銭湯人の登場である。
(つづく)

※七ツ時……夕方の4時ごろ


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
銭湯マップはこちら

今回の記事は2003年6月発行/62号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)