平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


前号で、業界内の諜報に重宝されていた「銭湯御用達人」のことを記した。彼らは銭湯に出入りする業者で、各銭湯に出入りしていたため業界の消息に通じており、銭湯同士の縁組を仲介することもあった。業者にとっては双方を結ぶことで仕事上の信頼が増し、顧客を増やすことができるメリットがあった。銭湯側からしてみれば、業界人同士の縁組は願ってもないこと。こうして業者と銭湯は結び付きを強めていき、業界内の諜報活動でも活躍することとなったのだ。

さて、そんな諜報活動が必要となった舞台、すなわち親分を組合の役員に座らせる運動は、数の確保がもっとも重要になる。いかにお国(同郷)の出身者を集めるか? そのため、お国の人達の東京での結束を固めるためにさまざまな講や無尽(※)が作られていた。数多くあった無尽講の中から現在も続くユニークな会をここで紹介しよう。

「獲節(かくせつ)会」と名付けられたこの集まりは越後出身者で作られている。獲節というのは、農家のお米の収穫後、各自農作物と酒を持ち寄り、農作業へのお礼と五穀豊穣への感謝のお祝いを一族郎党で盛大に行う感謝祭のこと。そのネーミングを拝借し越後出身の湯屋仲間で獲節会は立ち上げられた。

郷愁も手伝ってか、獲節会は毎年大変な盛り上がりを見せるが、それには一つの仕掛けがある。

毎年会の始まりに山高帽子にカイゼル髭を付け白手袋をはめた村長(会長)が、参加者全員の前に立ち、うやうやしく紫の袱紗(ふくさ)の桐箱を頭上に持ち上げる。そして、おもむろに巻物を取り出して一礼し「朕(ちん)思うに……」と読み上げるのだ。この巻物は「性教育勅語」と名付けられたこの会に代々伝わる宝物で、誌面で活字にするには、ちょっとはばかられる内容。ようするに男女はこうあるべきと説いてある。参加者は過ぎ去った故郷を思い出しつつ、大真面目な格好の村長が読み上げる仰天の勅語の内容に参加者一同爆笑となり大いに盛り上がる。ここで活字にできないのが誠に残念です。

このような同郷者の集まりは現在では少なくなりつつあるが、会友を増やしている「新潟浴友会」(会長:高張末松)という会もある。同様に、現在も会友を増やしている獲節会が設立されたのは、業界バブル驀進中の昭和31年のことだった。

(※)「講」は民間の相互扶助組合、「無尽」は互いの掛け金で金銭を融通することを目的とした集まり


東京都公衆浴場商業協同組合(昭和25年設立)の歴代理事長と出身地 その2

初代 田村虎太郎 新潟
2代目 坂下卯三郎 東京・神田
3・5代目 染谷盛一 長野
4・6代目 栃倉晴二 新潟

※明治40年に設立された東京浴場組合は数度の改組を経て、昭和25年東京都公衆浴場商業協同組合が新たに設立された


【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2004年10月発行/70号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)