平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
ようやく一本立ちできた電話代行業の社長の座を息子に譲り、久しぶりに自分の時間を持てるようになった。私も50代を目の前にして、そろそろ一家の先行きを考える時期に差しかかっていた。
無一文から始めた銭湯業、好きで起こしたこの稼業。周囲の人たちに助けられて多くの人に出会い、引き立てていただいた。感謝の気持ちを込め、組合の仕事もささやかながら長年お手伝いしてきた。
これまで営業し続けてきた浴場の建物、設備は限界に近付いていた。これらを一新するのも私の元気なうちに行いたい。家族会議で女房と長男の賛同が得られたので、浴場の建て替え準備に入った。
地上4階、地下1階の設計だったが、これが難作業。将来の銭湯像、家族構成、テナント、高齢化対策などの意見が百出し、1ヵ月後にやっと結論が出た。1階と地下をテナントに、2階を浴場、3階から上を家族の住まいとし、煙突なしの、ボタン1つでお湯が沸くガス式マイコン浴場にすることにした。これなら私が高齢になっても営業できるし、子供たちは自分の仕事に専念できると思った。
昭和63年春に起工式を行い工事に入った。時はバブルの絶頂期。大手ゼネコンが繁栄し、資材も値上がりして品不足が生じ始めたころだ。坪単価は設備も含めて140万円に膨れ上がった。
そんな折、1年を費やす工事中の余暇を利用して旅行でもしたらいいと子供たちから提案され、浴場系信用組合の主催するオーストラリア旅行に参加することにした。振り返ってみれば、女房とは事情があって新婚旅行もせず、双方の実家にそろって訪ねたこともないくらいで、子供たちからの提案に目頭が熱くなるのを覚えた。この旅も天からの恵みかもしれぬ。
同行者は皆、顔見知り。シドニーのオペラハウスや古都メルボルン、美しい海岸線グレートバリアリーフなどを訪れるあっという間の10日間だったが、女房のうれしそうな満足顔が一番の収穫だった。
子供たちも成長したもので、留守の任を全うしてくれたことも二重の喜びだったが、楽あれば苦あり。帰国後は激務が待っていた。
当時、私は新宿の組合長をやっており、別の組合との統合やその後の支部統一を控え、その地ならしを迫られていた。
工事のほうも、資材・作業員不足で苦労した。しかし紆余曲折を経ながらも全容が見え始めてきた。
年も明け、昭和64年に昭和天皇が崩御。年号は新たに平成に変わった。そして1年にわたる工事の末、平成元年4月24日に竣工式、同26日にめでたく開店にこぎつけた。
さあ、「平成の銭湯」、どう渡っていくか。これからが楽しみだ。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2003年2月発行/60号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)