平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
電話の秘書代行業務を研修中の女性が、自らの東北なまりが直らないことを気にして姿を消した。その上、家族からは彼女との関係を怪しまれ、取りつく島もない。
しかし、そんなことではへこたれない。電話秘書代行業A社の支店長からキャリア女性を派遣してもらい、とにかく新事務所をスタートさせた。
私は新会社のチラシを所構わず配布するポスティングの仕事を、雨の日も風の日も毎日行った。そんな苦労が1ヵ月半も続いたある朝、出向女性が泣いている。聞けば2社契約が取れたという。
以後は彼女の応対のよさが口伝えで弁護士や、建築業界に順調に広がっていき、“声美人”の数も2人、3人と増えていった。
しかし、チラシ配布は毎日続けなければ反応が止まる。何しろ営業マンもいない小さな会社だから雑用全般は私の担当だった。
それでも、顧客のクレームや無理難題を迅速に処理していく声美人たちの仕事ぶりを見るにつけ、雑用もまた楽しく思えてくる。
本業の風呂屋は、日々同じ作業を繰り返し続けていく仕事でそれなりに大変だが、他業種をのぞいてみると、その比ではない。かといって風呂屋のほうは年々、利用客の減少が続く一方だ。息子達に相応の仕事で力を付けさせないと先行き悔いを残すことになる。
幸か不幸か銭湯の客の減少が親子の絆を強めた。3年後、同業のB社で修行した長男が戻ってきた。
代行業務では、顧客からの電話はすべて秘書センターに回す。地方の物産や商品の発注も転送電話で東京の秘書センターを経由し、注文の商品は東京営業所扱いで瞬時に日本全国に流通する。
購買者は東京営業所、すなわちセンターまでの電話料金で済み、地方の業者は東京営業所(センターへの転送電話)を置くことで全国に信用を得る。両者のニーズにこたえることで、われわれへの需要も高まるというわけだ。
そんな時期、長男から「電話代行業の社長を譲ってくれないか」と相談があった。しかしまだ20代半ばだ。今後の苦労を思うとかわいそうだと思ったが、覚悟の上の結論だろう。望むときに伸ばしてやろうと、その場で「頑張れ」と引き渡した。目を離さず応援すればなんとかなることを祈った。
それにしても、シャワー内で寝泊まりする女性との出会いがなかったら、この電話事業の発想も生まれなかったし、“息子のやる気”も引き出せなかったと思う。
人間、ちょっとした経緯から応用・アイデア・機敏・決断・実行に移せば、結構面白いこともある。
多少危険と思っても、プラス思考で推し進めると、本人も明るく周囲も明るくなるものである。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2002年12月発行/59号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)