平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
昭和59年、当時はまだ珍しかったシャワーランドを開設したところ、シャワー内に泊まる中年女性が現れた。注意すると、「夫と離婚後、職探しのため上京したが、所持金も底をつき、シャワー内に泊まり始めた」という。
内情は理解できるが、私も昼は本業の仕事、夜は監視と連日連夜、新宿と渋谷を往復する毎日で、体力も限界にきていた。ひょっとすると恵みの人物かもしれないと、履歴書を預かり、落ち着くまで私の寝場所を提供することにした。
私が彼女の両親と連絡を取ったりしているうちに、彼女はシャワーランドの清掃を自主的に行うなど、ビル管理も板についてきた。だが、給料は生活費や小遣いを捻出するには程遠いようだった。
そこで鍋、釜、米、食器などを買い与え、ビル管理を兼ねることができる職探しを急いだ。
以前、大阪の浴場業界を視察に行った折に、同業者のご子息が東京で大手電話業の支店長になっていることを思い出し、早速会って趣旨を説明したところ、電話代行のできる、頭の切り替えの早い“声美人”としてどうかといわれた。それなら彼女もできる分野だと思い込み、新語の“声美人”について理解できぬまま見切り発車してしまった。“聞くは一時の恥”を無視してしまったがために、後に大きな墓穴を掘ることになる。
当時電話秘書代行業は大手の2社が東京と大阪を牛耳っており、地方都市には進出していなかった。その1つ、A社の支店長にお願いして、特別に彼女の短期見習いの研修をしてもらうことになった。もう1つのB社には、大学卒業間近の長男を就職させ、双方の社風を取り入れた代行業兼マーケティングリサーチの新ビジネスを同じビル内に展開できるよう、2人の早い技術習得を願って送り出した。
女性の場合は短期習得でも3ヵ月はかかるという。それまでに事務所を作ろうと、電話機、机、ホワイトボード、事務用品をそろえ、半月ほどで6畳余りのこぎれいな事務所が完成した。
勇んでA社支店長に連絡を取ったら、本人が出社していないという。東北なまりがひどく、特訓中に来なくなってしまったというのだ。姿の見えない電話番は声美人でなければ通用しないのは常識なのに、その奥義を知らずに彼女にかけた甘さを露呈した格好だ。
一応事務所は完成し、3年後には息子がB社のノウハウを身に付けて戻ってくる段取りは整っていた。が、肝心の声美人に逃げられてはお先真っ暗だ。その上、家族からは「相当つぎ込んだようだけど、彼女はどんな人だったの? よそ様に顔向けできないことだけはやらないでね」と総攻撃を食らった。さあ、どう切り抜けるか。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2002年10月発行/58号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)