京急蒲田駅に近い住宅街で90年の歴史を持ち、今も薪で湯を沸かしている大正湯。周辺の商店街は姿を消したものの、店先を行き交う人々の姿は絶えず、地域に寄り添う存在であり続けている。変わりゆく町並みのビルの谷間にそびえ立つ煙突に、愛着と共に畏敬の念を抱かずにはいられない。
昭和9(1934)年に創業した大正湯は、昭和41年に建て替えた後、昭和59年と61年に中普請を施している。3代目ご主人である渡辺孝司さんによれば、渡辺家が銭湯を営むようになったのは昭和9年だが、それ以前から現在の場所に大正湯という銭湯が存在しており、どうやら大正時代から営業していた可能性が高いとのこと。
現在の建物は昭和41年の建て替えが基礎となっており、入り口のタイル張りのアーチ状の屋根や、脱衣場へ続く湾曲した鏡張りの壁など、昭和の雰囲気が色濃く漂っている。脱衣場に置かれたベビーベッドやお釜ドライヤーからは、当時の様子が目に浮かぶ。かつて子供連れのお客さんが多かった頃には、子供の面倒をみてくれる女中さんが2人もいたそうで、母親にとって大正湯は安らぎの場だったことだろう。
都内の銭湯を長年撮影してきたが、大正湯のように浴室のカランの中央から撮影できる銭湯は意外に少ない。銭湯の浴室を建築写真として撮影する際は、背景画に正対し、左右対称にカランが並ぶ構図が最も好ましい。また、撮影の際には視点の高さにも注意を払い、浴室で使用している椅子に座ることで臨場感を意識するなどの工夫も効果的である。
さて、今回の撮影の1週間前、大正湯では10年ぶりに釜の入れ替え工事が行われた。数日間の休業だったが、薪に触れる日々が日常となっているご主人にとっては、することがなくて物足りない日々だったという。
大正湯では基本的に薪でお湯を沸かしているが(薪が少ないときはガスも使う)、都内全体で見ると薪を使用する銭湯は15%にも満たず、年々減少の一途をたどっている。かつては後継者不足が廃業の最大の理由だったが、近年では薪の調達の難しさに加え、ガスや電気料金の高騰も廃業の一因となっているという。
ところで、大正湯のペンキ絵は田中みずきさんの手によるものである。銭湯のペンキ絵は、かつては丸山さんや中島さんの作品が多かったが、ここ数年は田中みずきさんの作品が増えており、私が撮影する機会も増えている。
大正湯のペンキ絵は、田中さんによって、これまで4回描き替えられている。内容は富士山だけでなく、NHKのドラマにちなんだものなど多岐にわたる。現在のペンキ絵は今年(2024年)5月に描かれたもので、男女共に富士山が描かれたペンキ絵が楽しめる。男湯は大正湯の向こうに富士山が見える珍しい構図である。繊細なタッチに穏やかな色合い、そこにユーモアが加わる田中さんの作品からは、目が離せない。
現在、大正湯はご主人と女将さんで営まれている。清掃の行き届いた店内からは、お二人の大正湯への愛着とお客さんへの思いやりが伝わってくる。ご夫婦共に、銭湯を営む家族のもとで育った経験が今も生かされているのだろう。
撮影が終わり、私が入浴していると、裏口からご主人が現れた。お湯の温度を確認するため、ご主人は営業中に入浴するのを日課としている。浴室が混雑していないにもかかわらず、ご主人は湯船から一番遠い、入り口に近い場所で体を洗っていた。あまり使われない場所なので理由を尋ねると、「営業中に風呂に入るときは、湯船から一番遠い場所を使う」という祖父の教えに従っているという。ほんの些細なことかも知れないが、お客さんへの配慮が感じられる。そういった代々伝わる思いやりも大正湯の魅力の一つだろう。
(写真家 今田耕太郎)
【DATA】
大正湯(大田区|京急蒲田駅)
●銭湯お遍路番号:大田区 68番(銭湯マップはこちら)
●住所:大田区東蒲田1-21-6
●TEL:03-3731-6944
●営業時間:16~23時半
●定休日:金曜
●交通:京浜急行線「京急蒲田」駅下車、徒歩5分
●ホームページ:http://ota1010.com/explore/大正湯/
※記事の内容は掲載時の情報です。最新の情報とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。
今田耕太郎
1976年 北海道札幌市生まれ。建築写真カメラマン/写真家。
2014年4月よりフリーペーパー「1010」の表紙写真を担当。2015年4月からはHP「東京銭湯」のトップページ写真を手がける。
http://www.imadaphotoservice.com/
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