新宿区落合の山手通りと早稲田通りの交差点からほど近い住宅地にある松の湯は、2023年11月26日の「いい風呂の日」にリニューアルオープンをしたばかりの老舗銭湯である。今回は4代目の笠原洋人(ひろと)さんからうかがった話を元に、松の湯を紹介する。

松の湯の創業は大正12(1923)年で関東大震災の後のこと。残された記録と洋人さんの考察によると、松の湯の創業者は落合で有名な地主の高山家であり、関東大震災後の荒廃した落合に安らぎの場を作る目的で開業した可能性が高いという。当時は銭湯が地域の復興の象徴だったのだろう。

その松の湯を、昭和48(1973)年に洋人さんの父である故・五夫(いつお)さんが買い取り、平成元 (1989) 年に現在のビル型銭湯に建て替えた。そして、笠原家が松の湯を引き継いで50年、松の湯が創業して100年という節目の年にあたる令和5(2023)年に、数々のデザイナーズ銭湯を手掛けてきた建築家の今井健太郎氏に設計を依頼し、リニューアルを果たした。

リニューアルにあたっては、お客さんが「素」の自分になれる場所を目指し、「無」をコンセプトとして設備をミニマムにすることにこだわった。そうして生まれたのがシックな色合いのタイルに包まれ、上段から下段の浴槽へ流れ落ちる滝や、浴槽からあふれだす湯の音が心地よく響く浴室である。足を踏み入れると自然と心が落ち着き、自分と向き合う時間を持つことができる。

コンセプトである「無」には、ドイツ人建築家のミース・ファン・デル・ローエの残した言葉「Less is more」(少ないほうが豊かである)に通じるものがある。また、光や音が演出する浴室には、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』に描かれるような、薄明かりの中で聞こえる水の音が心を静める感覚があり、それが本来の「素」の自分に向き合わせてくれるようにも思える。

さて、ご主人の洋人さんは松の湯を営みながらマーケティングの会社も30年以上経営してきた。その経験から「数字は嘘をつかない」という哲学を持ち、今回のリニューアルにあたっても損益分岐点や投資対効果について徹底的に分析や計算を行った。とはいえ、最優先したのは数字だけでは計り知れないお客さんや従業員の方の幸福度であったという。

ところで先代の五夫さんは、文章を書き絵を嗜む趣味人であった。『東京銭湯三國志』や『絵でみるニッポン銭湯文化』など、自身が挿絵を描いた著作を残している。露天風呂には、五夫さんの描いた富士山のペンキ絵が飾られているほか、建物の壁には五夫さんが自ら銅板を叩いて作った屋号の看板も掲げられている。ちなみに浴室の滝もリニューアル前に五夫さんが考案したものである。随所に残された先代の足跡からは洋人さんの父に対する尊敬の念と共に、この地でさらに50年、100年と銭湯を営んでいく、という洋人さんの覚悟が感じられる。

松の湯の創業から100年の間に社会は大きく変化した。それは私が関わる写真の世界も同様であり、現在ではテクノロジーの進化により、AI(人工知能)の手助けを受け、画像を加工する効率が格段に良くなった。これからも、もっと進化したAIが開発されて行くはずだ。とはいえ、地域に根差した銭湯が人々に寄り添う癒やしの場であることは、次の100年も変わらないだろう。時代に左右されない、人を引き付ける魅力が暖簾の向こうに広がっている。ぜひ、松の湯で「素」の自分に向き合う時間を過ごしてみてほしい。

(写真家 今田耕太郎)


【DATA】
松の湯(新宿区|落合駅)
●銭湯お遍路番号:新宿区 5番
●住所:新宿区上落合3-9-10(銭湯マップはこちら
●TEL:03-3368-2352
●営業時間:15時半~24時(最終入場23時半)
●定休日:土曜
●交通:東京メトロ東西線「落合」駅下車、徒歩1分
●ホームページ:https://sites.google.com/view/ochiai-matsunoyu/
●X(旧Twitter):@ochiaimatsunoyu

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松の湯を切り盛りする4代目の笠原洋人さん


今田耕太郎

1976年 北海道札幌市生まれ。建築写真カメラマン/写真家。
2014年4月よりフリーペーパー「1010」の表紙写真を担当。2015年4月からはHP「東京銭湯」のトップページ写真を手がける。
http://www.imadaphotoservice.com/

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