夕暮れ時の雲翠泉の脱衣場で縁台に腰掛け、女将の池田信子さんにうかがった話を元に、雲翠泉の歴史とこの店を支えてきた人たちの話を紹介しよう。

雲翠泉の創業は昭和33(1958)年。信子さんの父、信次郎さんが初代である。今と同じ場所に「八千代泉」という屋号で銭湯が営まれていたが、信子さんの祖父が屋号を「雲翠泉」と名付け開業したと伝わっている。

外観を見る限り、木造建築に中普請を施した銭湯を想像するかも知れないが、内部の様子は昭和の雰囲気を保ち、窓枠や縁側の引き戸は未だに木製のままである。実は、信子さんのお父様は戦時中に疎開先で建具職人をしていた経験があり、それを活かして脱衣場の窓枠や引き戸、腰掛けなどを全て手作りしたそうだ。お父様の形見として残るそれらの建具にはさまざまな工夫が施されており、今も手入れをする職人さんを驚かせるという。

さて、雲翠泉は建物の構造や装飾も非常に個性的だ。

男湯の脱衣場には庭に挟まれるようにせり出した板の間がある。かつてはその板の間の下に水が流れており、庭の2つの池を繋いでいたという。

浴室は、東京では珍しく浴槽が中央に配置されており、その湯船から見る富士山や、水面に反射する富士山が極めて美しい。女湯のタイル絵は、日本を代表するお伽話の「浦島太郎」「桃太郎」「花咲爺さん」「舌切り雀」で、親子連れがこの絵を見ながら会話する光景が目に浮かんでくる。

そして忘れてならないのが、今は亡きペンキ絵の名匠・早川利光氏による富士山の背景画である。現在残されているペンキ絵は、早川氏が他界する前年の平成20(2008)年8月8日に描かれたもので、2020年には庶民文化研究家の町田忍氏の手により修復が施された。
一般的にペンキ絵は数年に一度のペースで描き替えられるが、この絵は修復されるまで12年も持ちこたえていた。他の絵師に描き替えてもらわなかった理由は、雲翠泉の創業時から背景画を描いていた早川氏のことを、信子さんは幼いころから「おじちゃん」と呼び親しんでいたため、他の絵に描き替える気にならなかったから、とのこと。

雲翠泉で生まれ育った信子さんにとって、雲翠泉は「ずっと居る場所」であるという。昭和から変わらぬ佇まいと木の温もりがいつまでも続いてほしい。お父様と早川さんもずっと信子さんを見守ってくれているはずである。
(写真家 今田耕太郎)


【DATA】
雲翠泉(荒川区|三河島駅)
●銭湯お遍路番号:荒川区 27番
●住所:荒川区東日暮里3-16-4(銭湯マップはこちら
●TEL:03-3801-4126
●営業時間:15~22時
●定休日:水曜
●交通:常磐線「三河島」駅下車、徒歩5分
●ホームページ:http://arakawa-sento.jp/雲翠泉/

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今田耕太郎

1976年 北海道札幌市生まれ。建築写真カメラマン/写真家。
2014年4月よりフリーペーパー「1010」の表紙写真を担当。2015年4月からはHP「東京銭湯」のトップページ写真を手がける。
http://www.imadaphotoservice.com/

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