「戦争なんてするもんじゃない」と銭湯にまつわる戦争体験を聞かせてくれたのは、今回撮影した大門湯のご主人である。
都電の東尾久三丁目駅から煙突に導かれるように、商店街の面影が残る道を進むと大門湯へ到着する。道すがら幾重にも入り組んだ頭上の電線にすら昭和の風情が感じられる。大門湯の創業は昭和初期。戦渦で焼失した後、昭和25(1950)年、同じ場所に現在の店が建てられた。その後2度の中普請を行い現在に至るそうだが、70年の歴史の重みが建物全体からにじみ出るようだ。
敷地を囲む大谷石や立派な宮造り建築からは、初代ご主人がこの銭湯に力を入れた心意気を感じられる。大門湯の屋号が綺麗に染め抜かれたのれんをくぐると、脱衣場には格天井が広がる。その脱衣場には銭湯でよく見られる注意書きが少なく、マナーのよいお客さんが多いことがうかがえる。浴室の男女の仕切りにあるタイル画や背景画の富士山は、もはや芸術作品である。また、湯船の底にはとても珍しい金魚のタイル画もある。タイル画を浅い湯船の底に敷いたのは、子どもたちを思いやってのことだ。
大門湯は長期休業をしていた時期があるため、平成29年度版の「東京銭湯お遍路マップ」では休業中と記載されているほか、ネット上でも情報が少ない。私も今回の撮影で初めて訪ねたが、実際に足を運んでその歴史ある建物に接してみると、よくぞ今まで残ってくれたと特別な感動がこみ上げてきた。
さて、80歳を超えるご主人はとても優しくほがらかで、若いころは写真を趣味として2階の押し入れに暗室を作り、現像するほどであった。その当時の写真は今も残り、それを拝見しつつご主人の思い出話をうかがったのだが、それは半世紀を超えるタイムトリップとなった。
ご主人が大門湯に移り住んだのは6歳の時。第二次世界大戦の真っ最中で、当時の記憶は今も鮮明だ。ご主人の役目は、空襲警報が鳴ると重要書類がすべて入ったズタ袋を抱え、銭湯の裏にあるレンガ造りの燃料置き場に避難することであった。空襲は幾度も繰り返され、最も死傷者が多かった昭和20年3月9日深夜の東京大空襲の時も真っ暗な燃料置き場に身を潜めた。延々と続いた爆撃の音がようやく止み、燃料置き場から出てみると、都電の線路を境に南側は全面焼け野原。その日は北風が吹いていたため、大門湯は幸運にも焼け残ったのだった。
しかし、その大門湯も5月の空襲でとうとう焼けてしまった。その日、ご主人は母親に手を引かれ、焼夷弾が降り注ぐ中を既に焼け野原になっていた線路の南側に逃げ込むことで難を逃れた。既に焼けてしまった線路の南側は空襲の標的から外れていて安全だった。かろうじて焼け残ったのはレンガ造りの釜場と燃料置き場のみ。そこに近所の人と寝泊まりをした。当時幼かったご主人の心には恐怖と悲惨な現実が刻み込まれているはずで、話の流れとはいえ、そんな体験を思い起こさせてしまったことを後悔した。「こんな暗い話、聞いてもおもしろくないでしょう」と笑顔で話すご主人に、私はどんな顔で返事をすればよいのか困った。そんな戸惑いを見せる私に「戦争なんてするもんじゃない」とご主人が発した一言は、学校で学んだどんな授業よりも私の心に響いた。
戦後75年が経ち、戦争の記憶が薄れていく中、銭湯を通して戦争の悲惨さを後世に語り継ぐことの大切さを改めて感じた。惨禍を繰り返さないためには、歴史に学ぶ謙虚さが必要であり、そうしたことがよりよい未来につながると思う。昭和・平成・令和と続いてきた大門湯で貴重な体験談を聞けたことは、写真として大門湯を記録できたことと共に、何よりの宝である。
(写真家 今田耕太郎)
【DATA】
大門湯(荒川区|東尾久三丁目駅)
●銭湯お遍路番号:荒川区 9番
●住所:荒川区東尾久6-11-2
●TEL:03-3895-4668
●営業時間:16~21時
●定休日:月曜
●交通:都電荒川線「東尾久三丁目」駅下車、徒歩3分
●ホームページ:http://arakawa-sento.jp/大門湯
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今田耕太郎
1976年 北海道札幌市生まれ。建築写真カメラマン/写真家。
2014年4月よりフリーペーパー「1010」の表紙写真を担当。2015年4月からはHP「東京銭湯」のトップページ写真を手がける。