菖蒲湯、柚子湯、ラベンダー湯……。銭湯で親しまれている季節湯は、風呂好きにはたまらなくうれしいイベントです。「たまらない」と感じる理由は、お湯からふと立ちあがる香りにあるのではないでしょうか。香りは不思議なことに、私たちの心をわくわくさせたり、幸福を感じさせたりします。そして、お風呂に香りが加わると、入浴の価値がぐんと高まるような気持ちになります。なぜ香りはこんな変化をもたらせてくれるのでしょうか。

数年前、香りに関するちょっとした話題が広まったことを覚えていらっしゃいますか? 「香りで認知症が改善する」という話。鳥取大学医学部の浦上教授は、認知症患者の多くが最初に嗅覚を失っているという事実に注目し、嗅覚に刺激を与えれば認知症が予防できたり改善したりするのではないか、と考えてその方法を模索しました。その時選んだ手段が、一部で人気を博していた「アロマセラピー」です。アロマセラピーは芳香植物から抽出した精油(エッセンシャルオイル)を使って行う一種の自然療法です。精油は香水の原料でもありますから、一言でいうと香りの力で心や体をケアするという療法です。

アロマセラピーは古代文明に起源をもち、近世ではヨーロッパを中心に行われて一定の実績を上げてきました。浦上教授の実験で効果があったのは、ローズマリーとレモンの香りを日中に2時間嗅ぎ、ラベンダーとオレンジの香り(いずれも精油)を夜寝る前に2時間嗅ぐというもの。これを毎日続けた結果、「物忘れが減った」「意欲が出てきた」などアルツハイマー型認知症の症状緩和に香りが寄与することが明確となりました。メディアで取り上げられると大きな注目を浴びて、脳に対する香りの効用が多くの人に知れ渡るようになったのです。

その後、星薬科大学の塩田教授により、レモングラスの香りも有効であることが報告され、現在もさまざまな研究者が認知症に有効な香りの研究をしています。また、男性は60代、女性は70代から嗅覚が衰えるといわれていますが、嗅覚の衰えは認知症のみならず、高齢者の筋力低下(サルコペニア)との関連性も疑われています。また、嗅覚を失った人は失っていない人より「5年後の死亡率が3倍以上高くなる」という報告もあり、嗅覚と加齢の関係性が今、大変注目されているのです。

一般には視覚や聴覚より蔑まれがちな嗅覚ですが、とんでもありません。鼻は健康寿命のカギを握っている感覚器官の可能性もあるのです。そして歴史をたどると、お風呂に香りを加えることで「へぇー」という効果が生まれるエピソードもあります。たとえば紀元前1500年頃に書かれたエジプト医学のパピルス本には芳香物質やその処方が示されており、この本を発見したエーベルスによれば、女たちが香料入りの水で沐浴し、男たちは香料入りの軟膏を体に塗り、食品や住空間にもふんだんに香りが使われていたなど、香料が生活の中で重要な役割を果たしたといわれています。かのクレオパトラがシーザーやアントニウスを虜にするためにバラの風呂で沐浴したという逸話は有名ですが、古代ローマ時代には、戦の前に兵士がシソ科のタイムを風呂に入れて入浴し、勇気を鼓舞したといわれています。このように古代から、植物の香りを加えた風呂はQOL(quality of life=生活の質)を上げる必要な手段でした。

日本でも冒頭で紹介したように、柚子湯や菖蒲湯など草や果実を利用した風呂文化の伝統が続いてきました。明治中期には漢方の生薬を使った「中将湯」という入浴剤が開発され、発展していく過程で、お湯に色や香りをつけることによってリラックス効果を演出しようと、さまざまなタイプの香料入り入浴剤が流通するようになりました。

5月5日こどもの日の菖蒲湯は銭湯の恒例行事(品川区・富士見湯

 

ここで最初の疑問に戻ります。そもそもなぜ人は香りに魅了されたり癒やされたりするのでしょうか?

実はおいしいものを味わったり、生命を脅かす食品の腐敗や環境の異変などを察知したりするのに、香りは欠かすことのできない大切な要素です。この香りを捕まえて脳に伝える役目をしているのが嗅覚という感覚なのです。嗅覚は五感の中で唯一、「本能的な行動」や「喜怒哀楽などの感情」をつかさどる大脳辺縁系に直接つながっています。大脳辺縁系は呼吸・循環・排出・吸収に関与していますが、「香りの刺激」はこの部位にわずか0.2秒で到達するといわれています。つまり一瞬で安全か危険か、好きか嫌いか、安心できるかできないかなどを「信号」として私たちに知らせてくれているのです。

では、すでに嗅覚が衰えているという人はどうしたらいいのでしょうか? ご心配なく。実は、衰えてしまった嗅神経も諦めずに「香りを嗅ぎつづける」ことで再び活性化することが分かっています。「高齢者は嗅覚を鍛えよ」という話もあるほどで、ドイツのドレスデン大学の研究によれば、レモン、ユーカリ、バラ、クローブの香りを毎日、朝晩10秒、6ヵ月以上嗅ぐことが推奨されているそうです。そのほか、「これは〇〇の匂い」と自分で意識しながら嗅ぐことも推奨されており、日々暮らしの中で意識的に嗅覚を研ぎ澄ませ、香りをしっかり認識することが鼻のトレーニングになるようです。ですから薬湯のある銭湯では、入浴時に一生懸命においを嗅ぐことによって、根本的な老化防止の訓練になるはず。余談ですが、新型コロナウイルスに罹患すると50~90%というかなり高い確率で味覚障害・嗅覚障害が起こるといわれていますから、この時期、香りを意識して生活をしていると、いち早く危険をキャッチすることができるでしょう。

それでは、入浴にはどんな香りが適しているのでしょうか? ここでは理由を説明すると長くなるので省略しますが、天然の香りにしぼってご紹介しましょう。

前回ご紹介した柚子湯の香りには、血行促進作用があるほか、副交感神経を優位にしたり、疲労回復ややる気を高めたり、ストレスを減少させたりする効果が専門家によって報告されています。そのほか「緊張」「落ち込み」「怒り」「混乱」の感情が改善するというデータも出ているとのこと。つまり、柚子の香りは冷えと乾燥による免疫力低下や、冬季うつの予防にも一役買ってくれる香りといえそうです。

これまで東京都浴場組合で行ってきたラベンダー湯もまた、とても効果の高い香り風呂です。ラベンダーは南フランスが産地として世界的に有名で、日本には江戸時代に入ってきたといわれています。日本国内で初めて本格的に栽培を始めた北海道・富良野のラベンダーが有名ですが、今は全国各地にラベンダー栽培が広がっていて、その人気ぶりがうかがい知れます。フランスでは、ラベンダー精油は不眠や不安、ニキビや切り傷、やけどや痛み止めなど万能薬として使われてきました。今もなお、その香り成分について数多くの学術論文が出ていますが、やはり「リラックス効果」「安眠効果」が一番の魅力で、緊張した心身をゆるめたい、ストレスが過多なときに使いたい香りです。アレルギーがなければ、肌に対してもよい効果が期待できますので、ラベンダー精油が配合された石鹸やシャンプーを使用するのもいいかもしれません(ここでいう「精油」とは天然・純粋のものを指しており、人工的に合成されたものではありません)。

日本人にとっては、ヒノキ風呂や、ヒノキの桶、入浴剤としてのヒノキチップのにおいも心休まる香りといえるでしょう。ヒノキはご存知の通り寺社仏閣に使われてきましたが、ヒノキの香りに含まれる成分α-カジノールには防虫効果や防カビ効果に優れているといわれています。別の香り成分α-ピネンも副交感神経を優位にし、心身をリラックスさせてくれることが分かっています。(以下、次号)


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