
平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
歌舞伎座は、今年5月から建て替え工事が始まった。
「まさか真四角のビルになるんじゃないでしょうね」と心配な私。
「そんなことはないわよ」と否定する楽観的友達。建て替えてもせめて外観は今のままの姿を残してほしいと願うのは、懐古趣味のせいだろうか。
昭和の初め、私が子供の頃は歌舞伎座へ行くのは、市電で銀座尾張町で降りて歩いたもの。今は地下鉄で目の前まで行ける。5歳の頃、歌舞伎好きの母に連れられて行った歌舞伎座の通路には、赤い絨毯(じゅうたん)が敷かれていたような記憶がある。子供には芝居は退屈、持て余した私は絨毯の上を行ったり来たりして母を困らせた。
20歳になって自分で切符を買うようになってからは、もっぱら3階席。当時は初日には昼夜ぶっ通しで観られるという特典があった。薄給の身にはありがたいサービス。それを見逃す手はないと、初日の切符を手に入れるために早朝の行列もいとわなかった。だが、幕開きの朝11時から夜10時の長丁場、身を乗り出して観ていた私も最後の幕あたりには居眠りをしていた。
その頃は3階までの階段を苦もなく上がれたものだが、今では上がる気力がない。新築の歌舞伎座には当然エレベーターが付くものと信じている。
何年か前、友達と歌舞伎を観に行った時のこと。その日の出し物は、井原西鶴の「おさん茂兵衛」という姦通(かんつう)もの。今で言うところの不倫の話。当日は友達の招待で花道脇の特等席。
彼女は中村時蔵の大ファン。舞台から真っ赤な裾除け(※)もあらわに、身悶えつつ花道へ向かってくる時蔵演じる「おさん」を待つ。はだけた襟元を掻き合わせ、掻き合わせ、息を弾ませて走って来る「おさん」に、観客全員固唾を呑む。私のほうは寝乱れた「おさん」のあとをとぼとぼと歩いてくる哀れな姿の「茂兵衛」の方に魅せられていた。
3階から「萬(よろず)屋ぁー」と掛け声。その声に見上げれば紅白の提灯が観客の熱気でゆらゆら揺れている。間近に迫る「おさん」と「茂兵衛」の額に、胸元に汗の玉がきらり。二人のうなだれた様子に後悔を感じたのは私の当て推量か。
前後してご両人が花道から奥へ引っ込むと客席には「ハアー」とため息。
「今日の時蔵さん、素晴らしかったわねえ」と時蔵ファンの友達は大満足の様子。
私は「茂兵衛役の梅玉さんがよかったわよ」とそれぞれの見方。
また、後ろから若い女性の声「あの人が男なんて信じられなァーい」「マジ、どこで男になるの」と超現実的な会話。ドロドロと跳ねの太鼓、感動の余韻を抱き夜の銀座の街へ出た。
※裾除け:蹴出しとも呼ぶ。和服の下に着用する下着
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。
挿絵:笠原五夫(かさはらいつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2010年6月発行/104号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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