
平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
行きつけの中華ソバ屋のママさんは大きな目の人。娘時代のあだ名は不二家のペコちゃんだったそうな。今でも大きな目をクリクリさせ、口の端に舌をのぞかせおどけてみせるとまさにペコちゃん。
マスターは、年寄りには「薄味がいいでしょ」と笑顔で聞いてくれる思いやりのある人。
店に来る常連のお客さんであるタクシーの運転手さん、Nさんと私は仲良しになった。いつもは紺の制服に縞のネクタイという格好だが、その日は仕事明けとか。ベージュの皮ジャンに黒地に白の水玉のマフラーという、いつにないしゃれた格好。ママ、マスター、Nさんも共に戦後生まれの60代。昭和5年生まれの私の話すことが通じないこともたびたび。でもNさんは合わせてくれる。
彼曰く、「ボクはお袋が死んだ時一ヵ月も泣きっぱなしだったのよ」と。涙ぐんだその後、ビールを一本飲んでご機嫌になった彼は得意の歌が出た。
お昼の時間が終り、お店は暇な時間帯。彼の歌を聴いていると、ふいに懐かしい歌を思い出した私。「三橋美智也のアレアレ」と肝心な歌の名前を思い出せないもどかしさ。「アレね、おんな船頭唄ね」と素早く反応する彼。確か三橋美智也は私と同じ年だったはず。
その歌がはやった当時、失恋に悩んでいた私は、その歌を聞くといまだにその時のことを思い出す。築地市場の岸壁で私の肩を抱いた暖かい某氏の手から伝わってくる体温、私の胸はトクトクと早鐘のよう。寄せて来る藍色の波、カモメの甘い鳴き声。私は有頂天。身も世もあらぬよい気分。ところがその某氏はミス○○と結婚。忘れがたい私はビルの上から飛び降りようと思ったこともあった。
それから60年も経った今でも、「おんな船頭唄」を聞くと棒立ちのまま唄う三橋美智也の姿や声を思い出す。歌詞やメロディを体が覚えているのか。
Nさんの美声に慰められていい気分の私。さらにそれだけでなく、唄いながら私の丸くなった背中をさすってくれるNさん。お茶のお代わりを出してくれるママさんにも甘え、つい長居する。戦後生まれの3人に囲まれて心安らぎ、この上なく幸せな気分。
お母さんが亡くなったあと一ヵ月も泣き通しだったという彼は、察するに、私の背中でお母さんのことを思い出しているのだろう。亡くなったお母さんの代役をさせてもらっている私はただただ、ありがたさに頭が下がるばかり。
彼は私の年に合わせて、樋口一葉の恋を語る。「一葉は、半井桃水(なからいとうすい)に恋しちゃってさ」 まさか、三橋美智也の歌で昔を思い出した私の気持ちにお気付きなのでは? とドキリ。
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。
挿絵:笠原五夫(かさはらいつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2010年4月発行/103号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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