平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


浅草の繁華街で育った私は陽気なのが好き、陰気は嫌いだ。10年間丸の内でOL(当時はBGといっていた)をしていた時期もあったので、米屋さんと結婚して店に出た時はお客さんに「いらっしゃい」といえず、棒のように立っていた。ところが、そのあと間口2間の小さなパン屋兼お菓子屋をやるようになったころにはすっかり浅草育ちの体質が戻っていた。

店にコカコーラの自動販売機を置いた昭和50年頃のこと、近くに中学校や高校があって、パン屋はいつもクラブ帰りの彼らの声でにぎわっていた。店は北向き、「火鉢も置かないで、和世はぼろぼろよ」と母は叔母に訴えたという。私自身はそれを辛いとは思っていなかった。早い話が、熱気あふれる若者にエネルギーをもらっていたのだろう。

「おばさん、目がうるんでるわよ、熱があるんじゃない?」と女子生徒は心配してくれたが、商売というのは「今日は風邪をひいたのでお休みします」と看板は下げられないもの、と思い込んでいた。また夫は根っからの米屋でよく働く丈夫な人だったから、風邪ぐらいは病気のうちに入らないと思っていた。子供が風邪にかかった時往診にきたお医者さんに「赤ちゃんはいいけど、奥さん、あんたは肺炎になってるよ」といわれ、はじめて気が付いたほど、自分の体には無頓着だった。「和世はボロボロよ」と言った母の心配は当たっていた。「肺炎は21日寝てなくちゃ」とおろおろする母、店が気になる夫と私、そんなこともあったっけ。

火の気のない北向きの店で暖をとれるのは、「肉まんあんまん」のケース。そのケースに抱きついてかろうじて暖まる。テニス部の女子生徒、ラグビー部の男子、野球部の生徒がパンのケースに群がる。コーラ片手にパンをかじる。彼らに会えるのが、その頃の私の生きがいだった。

「おばさん好きそうだから小椋桂のLPあげるよ」
無造作に差し出したのは、野球部の中では体が華奢(きゃしゃ)でいつも補欠の桑田君。
「いいの? うれしいなー」
あっさり貰っちゃった私。彼は息子と同学年。よその子って優しいんだ。お礼の電話をしたら、桑田君のお母さんは「いいえ、家じゃむすっとしてろくに口もきかないんですよ」とおっしゃる。そうか、きっと親にはみんなそうなんですね。

「今おばさんチ」
交代で母親に電話をしているテニス部の女子。その頃は携帯なんかなかった。

「さあ、今からこのパン全部半額」
パンは残れば捨てなければならない。
「えっ、本当」
「本当、でも一昨日のだから腐っているかもよ 」という私の冗談に一瞬驚く彼らたち。そのうちケースは空になった。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
銭湯マップはこちら


2009年12月発行/101号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


銭湯PR誌『1010』の最新号は都内の銭湯、東京都の美術館、都営地下鉄の一部の駅などで配布中です! 詳細はこちらをご覧ください。


160号(2024年12月発行)

 

159号(2024年9月発行)

 

158号(2024年6月発行)