伯父さんの店は銀座二丁目のすずかけの街路樹が茂る裏通りにあった。伯父さんの職業は築地の青果市場の仲買人。伯父さんと私の父はお酒大好き同士、2人が浅草の家と銀座の家を行ったり来たりする関係上、私も伯父さんの家によく泊まった。昭和10年、私が5
歳頃のこと。

仲買人はまだ星の煌(きらめ)いている朝3時には市場へ出かける。浅草の家ならそれから寝る時間。朝早い伯父さんの家の生活は子供の私にとって興味津々。手洗いに起きた私に「もう起きたのかい」と目をギョロギョロさせる伯父さん。台所では伯母さんが二段重ねのアルミニュームのお弁当箱に昼の用意。
「伯父さんと市場へ行きたいんでしょ」
伯母さんは察しがいい。
「じゃぁ弁当持ってついてきな」
渡されたお弁当はずしりと重い。空には星がキラキラ。お尻を振り加減に歩く伯父さんの後を私は小走りに追いかける。

市場に着くと熱気ムンムンの中、セリが始まっていた。セリが終わってようやくお弁当にありつけたのは、12時過ぎ。私のために作ってくれた卵焼きにかぶりつく。

市場から帰ってきたのは午後2時。伯父さんの店の前には大きな樽がいくつもならんでいた。中は里芋。
「さあ、始めるか」と手を揉みながら中から出てきたのは鶴さんという若い衆。ひらりと樽の縁にまたがると、バッテンに組んだ棒を樽の中へつっこみ、ゴロゴロと里芋を回しはじめた。そばで立って見ている私の足元がぐらぐら揺れる。
「よいしょ、よいしょ」という鶴さんの太い声。 里芋は見る見るうちに真っ白になる。

「汗かいたでしょ、ひとっ風呂浴びてきたら」と伯母さんの声。
「かずちゃん一緒に行くかい?」と私を誘う鶴さん。二つ返事の私。

永井荷風も好んで歩いたという銀座、カフェー「クロネコ」のネオン瞬く夕暮れの中を、鶴さんお気に入りの銀座八丁目の金春湯を目差し、てくてく歩く。

「男湯に入ってきたの?」と帰る早々聞く伯母さん。
「だって鶴さんと一緒だもん」と平気な私。
「鶴が連れてったのか」と長火鉢の前の伯父さんの怖い声。そこへ3階から若い衆の助け舟。3階は店の人達の部屋。伯父さんや伯母さんの前では足を投げ出したりしない若い衆がゆっくり休む所。

みんなと遊びたい一心の私は梯子(はしご)をかけあがった。ところが2階の手前で足をすべらせ、1階まで真っ逆さまに墜落。
「すわ一大事」と3階から駆け下りて来たのは鶴さん。幸い抱き上げられた私にはかすり傷一つなし。

浅草へ帰って「あんたはお転婆だから」と母に叱られても、「だって梯子段が狭いからさ」と梯子のせいにした私。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2009年6月発行/98号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

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