平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


4月8日はお釈迦様の誕生日。去年、友達と駒込の寺町へ花見堂を見に行ったことを思い出す。

時期とあって枝垂れ桜のきれいだったことは目をみはるばかり。近くのお寺に花見堂を見つけた私達は、早速お釈迦様に甘茶をかけて合掌。参詣者のために用意された湯呑み茶碗で甘茶をいただいた。

春とは言えその日は雲の動きが激しく、ぱらぱらと雨が来たかと思うと、また雲間から陽がのぞき、傘を開いたり閉じたり、しばらくお寺で雨宿りしてやり過ごす。 雨に濡れた枝垂れ桜はことのほかなまめかしい。

ようやく切れた雲間を縫ってこのあたりに詳しい友達の案内で、次なるお寺「吉祥寺」へ向かう。山門を入るとすぐに広い境内。

「昔は砂利道だったのに、コンクリートで固めて風情がなくなった」と嘆く友達。お目当ては「お七と吉三」の比翼塚(ひよくづか)。山門から3mほど先の塀寄りにある比翼塚に到着。銀杏の木をかたどった趣のある石碑。

その前にしばらく佇み、知識の豊富な友達の話に耳を傾ける。
「比翼塚って?」と私の質問。
「比翼塚っていうのはね、相思相愛の男女を一緒に葬った塚ってことで、早い話がお七と吉三を偲んで後世の人が建てたものなのよ」
「で、お七と吉三のなれ初めは何だったの?」
「それは火事からはじまったの、『火事と喧嘩は江戸の華』って言われているように、江戸には火事が多かったのね。天和2年12月の大火の時、八百屋お七も焼け出されたの。その頃の避難所といえばお寺ということ、そのお寺でお七と寺小姓の吉三の運命的な出会いがあったというわけ」
「面白そう」
「そうなのよ、16歳のお七は今でいえば木村拓哉みたいなハンサムな吉三に一目惚れしてしまった」
「それで、それで」と先を催促。
「恋の虜となったお七は、このお寺を出たら吉三に逢えなくなる、どうしよう、と悩んだあげく考えついたのが放火なのね。火事があればまたあの人に逢える、と思いこんで……」
「火をつけた、ロマンチックね」
「冗談じゃないわよ、その罪でお七は裸馬(はだかうま)の上に後ろ手に縛られ、江戸中引き回しのあげく、鈴ヶ森で火あぶりにされちゃうんだから。でも、火あぶりの刑は本当は16歳からで、その時15歳だと嘘をつけば助かったのに正直だから嘘がつけなかった」
「そりゃ可哀想」

お七が身を寄せた寺や恋慕した相手の名前は資料により諸説あるが、この話を『好色五人女』という小説にしたのが井原西鶴、その他浄瑠璃では「八百屋お七」、歌舞伎では「お七歌祭文」がある。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2009年2月発行/96号に掲載


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「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


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