平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
博打打ちの父は、仲間の間では根岸の重さんと呼ばれ、はばをきかせていたらしい。
その父が道灌山の家を売って浅草へ引き上げることを、
「若いくせに総桧の家なんか建てたからよ」
と失敗の原因について浅草の店にいる寅さんおじさんはいう。
また、道灌山という場所は芸術家が沢山住んでいたところで、
「画家や小説家を好きだったあんたのおかあちゃんの好みだったのサ」
母とは昔からの付き合いというおじさんの言葉。
その家には、昼間はおことさんというお婆さんと私の二人とイチという犬一匹がいるだけで、父と母は夜中にならなければ浅草から帰ってこない。寂しかったのは私だけでなく、犬のイチも同じだったようで、放浪の旅に出てしまった。
イチが居なくなったことをおことさんが浅草へ知らせると、驚いた父と母は大勝館の前の交番へ届けた。「犬まで手が回らないよ」と巡査は笑って取り合わなかった、その頃巡査は一日数人のスリを捕まえたというのだからもっともな話。
イチが浅草の店へ泥だらけになって顔を見せたのは一週間あとのこと。道灌山からいったいどうやって浅草の店を捜し当てたのだろうとみんなで頭をひねったり感心したりした。
母は可愛がっていた犬が自分を慕ってきたことが嬉しかったようで、
「清太郎より余程ましよ、清太郎なんか出て行ったきり鉄砲玉なんだから」
となにかにつけ兄を非難する。
浅草へ戻ってきた私は、千束小学校の4年へ編入。
「なんだ出戻りだな」
おじさんは口が悪い。
暇なおじさんは私を口実に映画を観に行く。好きな映画はチャンバラ、阪妻(※)の丹下左膳とか、アラカン(※)の鞍馬天狗にきまっている。その頃、不二洋子とか浅香光代とかいう女剣劇も盛んだった。
休憩時間は煙草の煙でもやもや、その中を
「えー、おせんにキャラメル、アンパンにラムネ」
と売り子が来る。
映画館を出ると、
「かず坊、風呂へ行こう」
という順番。
寅さんおじさんは私のことを「かず坊」と呼ぶ。女の子なのにと思いながらそういやではなかった。銭湯は六区を越え、寿司屋横丁の裏にある蛇骨湯。
「シャボンなんか使えるか」
というおじさんは、手ぬぐいを固く絞って身体をこするだけ。
帰りはこれもお定まりのコース駒形の「どぜう」屋へ。
首をふりふり義太夫の鼻歌、
「あれをやるから銭湯で嫌われるんだよ」
という母。
泥鰌(どじょう)を食べられない私をおじさんは、江戸っ子の面汚し、と手酌で一杯。ご機嫌のおじさんは、隅田川の風の中をいい気分のようす。
※阪妻=阪東妻三郎。1920年代から50年代に活躍した時代劇俳優
※アラカン=嵐寛寿郎。戦前・戦後の時代劇映画のヒーロー
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。
挿絵:笠原五夫(かさはらいつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
2007年8月発行/87号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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