平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
あかぢ坂を見上げる角の酒屋さんでこのあたりの様子を聞く。
あたりは戦災を受けない古い木造家屋が多い根津愛染町。
「そうなんですよ、あの家も、そこの丁子屋(ちょうじや)さん(染物屋)も戦前のままですよ」
おかみさんは愛想がいい。
「実は私小学生のころ、丁子屋さんの奥に住んでいたことがあったんですよ」
「そりゃそりゃ、懐かしいでしょ」
と手を止めて振り返る。
谷中マップにも紹介されている丁子屋さんの大きな看板は庇(ひさし)の上にある。店の中に入ると、小座敷には巾着袋や色染めの手ぬぐいなどが調和よく並べられている。手ぬぐいを手に取り見ていると、奥から60歳ぐらいの男性が出てきた。
「いらっしゃいませ」
と丁寧なご挨拶。
私の目的は戦前のことを尋ねたいだけ。だが、いきなり70年も前のことを持ち出すのは気がひけた。きまりがわるいと思いつつ
「実は、子供のころお宅の脇を入ったところに住んでいたことがあるんですよ」
と言った。
「はあ?」
いぶかしげに首を傾げるご主人、そこでひるんではと、
「お宅の干し場でよく坊ちゃんと遊んでもらったんですよ」
「はあ……、それはきっと兄貴でしょう」
じゃお兄さんは?と尋ねそうになったが、戦争を過ごしてきた私はただ懐かしいというだけで、迂闊(うかつ)に消息は聞けない。間の悪くなった私は
「小さいころはあかぢ坂を上って谷中小学校まで歩くのがきつくてね」
と話題を変えた。
「そうでしたね」
先方も私に話を合わせてくれる。長居は無用。うさぎの柄の手ぬぐいを二枚買って店を出た。
足は自然と不忍通りを渡り、根津神社へ。私の子供のころは、権現様と言っていた。そこの池へ母と亀を放しに来たことを思い出す。
「ここがいいわよ」
と池の面を指す母の色っぽい仕草。亀は万年というから今頃は主になっているかも。
そのあと夜店通りを抜け道灌山まで足を伸ばした。
「建前には唐獅子牡丹の入れ墨を旦那に見せるんだ」
と父が建てる新しい家のできるのを楽しみにしている若い衆の浩ちゃん。
「入れ墨はあとで熱が出て辛いんだぞ」
経験のある父が脅かす。
案の定浩ちゃんは建前の当日、四十度からの熱を出した。熱で顔が真っ赤になっているのに、ウンウン言いながら、集まった人にもろ肌脱ぎで、お餅や手ぬぐいを撒く。鳶の頭の木遣りのいい声。
「よっ、待ってました、浩ちゃんいい男」
と浅草から来た芸者さんたちが黄色い声援をおくる。
てっぺんで五色の御幣(ごへい)を抱えた浩ちゃんの体は、春の夕焼けに染まり大輪の牡丹の花のようだった。
谷中、根津愛染町、道灌山で過ごした子供のころの話。
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5年東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある
挿絵:笠原五夫(かさはら いつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
2007年4月発行/85号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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