平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


60年前の日本がアメリカに戦争で負けたころの話。

昭和20年3月10日、亀戸で焼け出された私と母は、伯母の持つ板橋のアパートのあき部屋に落ち着いた。

四畳半一間きりの窓の外は一面の麦畑。台所は共同、トイレは共同、しかも汲み取り式。重なった糞の上にはネズミが走り、ころころに太った蛆(ウジ)が泳いでいる。足を滑らしたら、悲劇と思うと、おちおち用をたしてもいられない。それでも、防空壕にトタンをかぶせた家よりは居心地はいいはず。ただ、困ったのはお風呂のないことだった。毎夜空襲で脅かされていた時はお風呂どころではなかったけれど、人並みの生活が出来るようになると、誰しもお風呂に入りたい。

そのころ、一日おきにあける銭湯があるという情報を聞いたので、早速友人と麦畑を越えて行った。

焼け残ったお風呂屋さんには、竹で編んだ籠も、タガをはめたおけもある。白いタイルの洗い場もすべすべしていた。

湯船は立錐の余地もないほど込み合っていて、見知らぬ同士が肌をぴたりとつけて湯の中に沈むような状態だった。あがる人が一斉に立った後は、湯船の中の湯は膝までしかなかった。

闇市で買ったしわの寄った石けんを泡立てるのは骨が折れる。それでも石けんを持っているのはよいほうで、私の立てた泡を横取りしていく子どももいる。

そのころは、ノミやシラミに縁のない人は滅多にいない。赤ちゃんを背負った母親が、爪の先で掻き集めたシラミを、プツンプツンと音をさせて潰している。私たちも前の人が置いていったシラミをもらわないように、洋服をよく振ってから着る。

お風呂上がりは気持ちがいい。行きは白い息を吐きながら急いで来た道も、帰りは取りとめのない話をしながらゆっくり歩いた。頭上には真ん丸な月が輝いている。
「もうすぐ、お酉様よね」
「三の酉まである年は、火事が多いんだって」
「そんなの迷信よ」
「切りざんしょ(※)が食べたいね」
「うん、食べたい食べたい」
二人は子供のころに食べた切りざんしょに思いをはせた。

16歳の私達は、「鬼も十八番茶も出花」にはまだ間があるが、「箸が転がってもおかしい年頃」である。お喋りはなかなか終わらない。北風も気にならない。

アパートに着いた頃は凍り付いた手ぬぐいが、一本の棒のようになっていた。
「あんたのは熊手みたい」
「面白い、真ん中におかめがいる」
友達は手ぬぐいを空にかざした。

(※)切ざんしょは、こねて蒸した上新粉に砂糖をまぜて山椒油等で風味付けしたお菓子


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだ かずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)がある。


挿絵:笠原五夫(かさはら いつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。


2006年12月発行/83号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


銭湯PR誌『1010』の最新号は都内の銭湯、東京都の美術館、都営地下鉄の一部の駅などで配布中です! 詳細はこちらをご覧ください。

154号(2022年12月発行)

 

153号(2022年9月発行)

 

152号(2022年6月発行)