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平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月✕日
見慣れない二人の男性が入ってきた。40代かなあ。フロント前に来てまずはご挨拶ときた。
「私たち背景画研究会という者なんですが、背景画について少しお話を聞きたいと思いまして……」
ホホウ、背景画研究会ねえ。いろんな会があるんですなあ。
「そう。でも当湯はタイルだから背景画はないよ」
「そうですかあ。しかしお話だけでも……」
アタシャ湯屋稼業を50年もやっていて、業界でつまらん駄文を弄(ろう)しているせいか、何かと質問を受けることがあるんだが、今回は背景画についてかあ。
そして、銭湯に関する質問にはよく分からなくても、いかにも詳しいように知ったかぶる。 我ながらいい加減なもんだと思うよね。今日もその調子――
お二人は背景画の由来などをぼつぼつと聞いてくる。で、以前に書いた番台ブログを引っ張り出してきて、あたかもその道の専門家のような口調で話すんだ。
背景画――一般的には壁画ともいうが、アタシら湯屋モンは「背景」と括(くく)って呼んでいたんだ。
アタシがこの稼業に入った当時から背景は銭湯のシンボルとしてその存在感は大きかったなあ。やはり富士山が多かったようだが、その後、時代の流れからか、あまり富士、富士とこだわらなくなっていった。
そしてね、アタシャ昭和27年に独立したんだが、その頃は毎年背景を描き替えていたんだ。しかし別に富士山だけではなくいろんな風景を描いてもらっていたよね。
何を描くかはほとんど背景屋さん任せだったが、日本の有名な景色はもちろん、絵はがきなどを参考にして日本アルプスやハワイ、グアム等の風光明媚なものも描いてもらったこともあったねえ。
背景屋さんは(正式な名称は背景絵師というんですが)浴槽の上に簡単な板を置いた足場を作ってパレットにハケを持ち下絵もせずに古い絵の上に重ねるようにハケを滑らせていく。見る見る雲が浮かび、山が出現し、海が荒波を打っている……。大きな壁面一杯の絵を男女両面5時間程度で仕上げてしまう。 まさに芸術だね。
モノの本にはこんなことが書かれている。
「大正の頃、神田猿楽町に『キカイ湯』という銭湯があった……経営者の東由松さんが殺風景だった湯船の背景に絵を描くことを思いつき、画家の川越広四郎さんに依頼して雄大な富士山を描いた……」
これが浴場の背景画の始まりなんだね。それから80年余、時経て昭和50年半ばから「いつまでも古めかしい背景でもあるまい」という風潮が出てきて、折しもビル型の銭湯が出現する時期とも重なり、壁面をタイルのモザイク形式にする浴場も増えてきたんだ。当湯などもそのクチだが、近年は新聞などが銭湯を取り上げる場合、かならずと言ってもいいほど社寺風の外観に富士山の背景画を取り上げるような影響もあり、背景屋さんが「富士山を望む銭湯が多くなっている」というような話もしばしば見られるねえ。歴史は繰り返す、ですかなあ。
とまあ言ったところだが、研究会のお二人は感心したような、そうでもないような顔付きで一応お礼を言い「お風呂に入らせてもらいます」と入浴をされたのである。
そして湯上がりに言う。「どこのお風呂屋さんへ行っても富士山の絵が描いてあるけど、ご主人のところはモザイク形式の白一色のタイルで、すっきりしてますねえ」と。
これホメラレタのかなあ。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし)
昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2008年2月発行/90号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
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