平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月✕日
その昔のまた昔といってもいいことだが、白黒のテレビの時代に新珠三千代が主演だったと思うけど「細腕繁盛記」というドラマが大ヒットしましたよね。と言っても覚えている人はもう少ないでしょうが、女手一つで旅館か料理屋の女将としてお店を切り盛りしていく奮闘物語でしたな。
女の細腕で男勝りにたくましく生きていく姿に多くの視聴者が感動したようでしたねえ。
という前触れで本題に入ろう。
実はね、当湯のお客さんにも細腕繁盛記のようなお方がいるんですよ。60半ばで和菓子屋さんを営んでいる奥さんであり、時々「余りもんなんだけど」とお菓子の差し入れをいただくんだが、これがまたうまいんですよねえ。
「これ、奥さんが作るんですか」
「そうよ、だって私以外は誰もいないもん」
そういえばこの方のご主人は長く患らっているとも聞いていたが
「じゃお菓子は全部奥さんが……」
「そうよ、私が作るの。 うちの主人は20年前、46歳で倒れて何ヵ月も入院してさあ、だから今でも体が不自由なの。ちょっとできることは手伝ってもくれるけど、ほとんど一人でやってんの」
「ホウ20年前からねえ。 じゃ何かと大変だったでしょうねえ」
「そうねえ、当時はもう滅茶苦茶よ。主人の面倒はみなけりゃならないし、子供はまだ小さいし、商売をしなけりゃ家賃だって払えないからねえ」
ウーン、菓子職人をやって商売もして、さらに主婦業から子育てにと八面六臂の活躍だ。まさにこれ以上ない細腕繁盛記だよ。
「じゃあ忙しいなんてもんじゃなかったでしたね。スゴイねえ」
「そう、だけど今だって結構頑張ってんのよ。この前の敬老の日なんか何カ所もの老人会からお赤飯注文がきたんで、夜中の2時から起きて作ったのよ。だから今でも眠る時間は4時間ぐらいかな」
うーん、アタシャ感心を通り越して感動すら覚えちゃったよ。
しかしこの奥さんは、こんな人生の試練を経験しながらも暗いところがまるでない。 苦労のさえみせない。で、アタシャちょいとその辺をお聞きしたんだ。
「だってさあ、落ち込んでるヒマなんかないじゃない。仕事と子育て、それに主人の看病で毎日が目一杯よ。否応(いやおう)なく働かなきゃなんないもん。だけど、あたしはどっちかと言えば楽天家のほうかもしれないわね」
ウーン、アタシャまたまた唸っちゃう。あっぱれ女丈夫だねえ。
11時半、女の脱衣場から仕舞間際のいつもの常連さんたちの賑やかな会話が聞こえてくる。奥さんの明るい笑い声も伝わってくる。
ちょいと前にこの奥さん方の団らんぶりをこの連載で「井戸端会議はいいねえ」のタイトルで書かせてもらったが、湯上がりのなんともいい雰囲気が伝わってくるんですなあ。
アタシャ、これこそ「銭湯のもう一つのよさである」と、いつも言うし団らんの雰囲気を歓迎する気持ちでいる。
そして奥さんが帰り際に言う。
「いつも遅くまでごめんなさいね。あたし、お風呂は早いんだけど、上がってきてからの~んびりしちゃうのよね。話し相手がいないと時々ウトウトしちゃったりさあ」
いえいえ、脱衣場も風呂のうちだから、のんびりゆったりくつろいでくださいな。
明日はまた忙しいんでしょ。ゆっくり一日の疲れを癒してね。アタシも毎んちノホホンとしてないで、少しは奥さんを見習わなくっちゃいけねえな――。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし)
昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2007年8月発行/87号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
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