平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月✕日
開店早々、大柄な子が3人、連れ立ってやってきた。
「高校生かい?」
「中学3年生です」
「そんなにデッカくて中学かよォ」
その中に一際(ひときわ)大きい子がいた。フロント前に小山ができた感じだ。
「お前はまたやけにデケェが身長・体重がどのくらいあるんだ?」
「1m85cmで、110kgです」
仲間が言う。
「こいつねマジでお相撲さんになるんだって」
そうかァ、ピッタリじゃねえか。
「もうどこかの相撲部屋からスカウトが来ただろ?」
「いえ、それはまだないんですが、僕は東関部屋に入りたいんです。高見盛もいますしね」
ホホウ、すでに将来の進路も決めてるのか。まだあどけなさが残る顔付きだが真面目さが伝わってくるよ。とにかく新弟子修行は厳しいというけれど、初志貫徹で頑張ってほしいねえ。だけど高校は出たほうがいいんじゃないかなあ。
さて次に参ろうか。今日は当湯の有望なる若者を紹介しようと思ってるんだ。そこなダンナ、このコラムを読んだらうるさいアンタだって「今の若いヤツは……」てな文句も言えなくなりますぜ。
「僕ね、山口県から出てきて、今は専門学校に入ってんです」
というのは最近見えるようになった21歳だという青年。人懐っこい性格らしく、湯上がりでアタシに何かと話し掛けてくるんだな。
「毎月ン万円を仕送りしてもらってんだけど、東京は物価が高いか6畳のアパートで自炊して洗濯もみな自分でやってるんです。それで将来は翻訳家になりたいんですけどねえ」
ホウ、翻訳家ねえ。アタシャ不勉強なもんで、翻訳家なる仕事がようわからん。しかし、世間の若者が大企業に入り安易な人生を、と志向する風潮の強い時に「確たる目的を持って苦学力行?」している若者がいたんだ。
そこなアンタねえ、クガクリッコウだよ、わかるかい? フロントでもノートを広げて何やら書いているよ。アンタのようにパチンコだ競馬だと遊んでいるヒマなんかないんだよ。今日ビの若者にしちゃあ大したもんだぜ。
もう1人紹介しよう。20代半ばの女性だが、やはり最近見えるようになった人で、黒縁のメガネを掛けて明るい会話をする女性だ。
来るたびにカバンをフロントに預けるが、書類が多くてカバンのチャックからはみ出している。
「いつも書類が一杯のようだけど何か勉強してんの?」
「ええ、図書館へ行っていろいろコピーをしてくるんです」
「図書館でねえ。学生さんなの?」
「ええ、大学院なんです」
「そう。大学院まで行って勉強するんだから将来は先生に?……」
別に大学院へ行ったからって先生になるとは決まっていねえだろうに、アタシの質問はいつもながら単純だねえ。
「ええ、できれば大学で外国人に日本語の指導をするようになりたいんですけど」
「じゃプロフェッサーだね」
アタシャ気取って軽い調子で言ってみたんだが、しごく真面目な言葉が返ってきたよ。
「できればそうなりたいですね」
ウーン、大学教授が将来像かあ。スゲエな。そこへいくと風呂屋のオヤジの若い頃なんていい加減なもんだったよ。で、アタシャ思った。
「下町の銭湯にもあのクラーク博士のBoys be ambitiousが生きていたんだ」
オッ! イングリッシュときたなッ。エッヘッ……。
アタシャ言いたい、今の若いモンはどうして立派だねえ――と。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし)
昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2007年6月発行/86号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
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