平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
「今度50号突破を記念して特集号を出すんですが、創刊号以来を振り返って何か感想を……」
編集屋さんからの電話である。

浴場組合の広報活動は以前、テレビで「ザ・銭湯」という5分間のPR番組をやっていたんだが、こちらは2年ほどで終わってしまった。そこへいくと『1010』は8年・50号が通過点というのだから、アタシがいうのもなんだけど頑張ってると思うよ。ついでにアタシのフロント日記だが、こっちは14号からの出発で6年。それでも「よくぞ飽きられずに続いたもんだ」というのが実感だ。

ハア? とっくに飽きてんだけど、情性で読んでるんだって? ウーン、ねえ。カナシイ……。

というような次第で、創刊号を引っ張り出してきた。懐かしいにおいだ。

まず「食べるエステ雑学事典」という特別企画に始まって「シリーズ東京人」が林家こぶ平で「東京歳時記」が浅草三社祭、さらに「われらお風呂大好き人間」には小沢昭一が登場して洒脱(しゃだつ)な会話を展開している。これなんかとってもいいねえ。

さて、もひとつ、創刊号には「湯上がり美人」というコーナーがあるんだ。スタートから12号までの2年間続いたんだから、古い方ならご存じでしょうな。

実はこの企画にアタシがちょいと絡んでんのよ。聞いてくれる?
『1010』の創刊企画が持ち上がった当時、アタシ、浴場組合の下っ端役員だったんで、編集屋さんとよく話をしていたんだ。そんとき、「どこの浴場でもちょっと目を引く女性が来るじゃない。そんなお客さんにご登場願ってさ、『湯上がり美人』というコーナーを設けたらどうだろう」と余計な口出しをしたんだな。

「ホウ、それは面白い。浴衣姿で湯桶を持った洗い髪の美人ねえ」
編集屋さん、昔の艶っぽい美人をイメージしてニヤッとしたぜ。で、その企画やろうじゃないかとなったんだが、そっからが問題。

「アンタがいい出したんだから、まずアンタのところで湯上がり美人を見つくろってきてよ」となっちゃった。見つくろってこい、ったって品物買うんじゃあるまいしねえ。それと浴場組合が初めて出す広報誌を飾るんだ。それなりに品性のある美人が欲しいじゃない。

例えばね、鼻の高いクレオパトラに似たようなヒトとか、ほほ笑みを浮かべた髪の長いモナリザタイプのヒト……

オイオイ、風呂屋にそんな美人がいるのかい?

いますよオ、銭湯のお客さんはすべて“アカ抜けて”ますがな。

それからアタシャ、毎日フロントで候補者選びよ。今思えば、美人が来るとヘンな目つきで見ていたんじゃねえかな。ヤなオヤジと思われていたかもね。

そして見つけましたよ、モナリザタイプを。時々見えてサウナを利用する髪の長いスラッとした美人で、年のころは20代後半かな。

けどねえこの人、口数が少なく真面目そうなんで、ガラが悪いくせにウプな風呂屋のオヤジはちょっと口説きにくかったんだよな。しかし周囲の話だと以前、ミス墨田にノミネートされたことがあり、現在も独身だというじゃない。美人で独身だよアンタ……。そうと聞きゃあもう突撃よ。

そこで意を決して思いの丈(たけ)(?)をぶちまけてみたんだ。彼女、目をパチクリ、びっくりした様子だったが、それでも「あたしでよかったら」と色よい返事をしてくれたじゃないか。オーイエス! その後はトントン拍子さ。当湯で撮影して創刊号に出色の1ページを飾ったっていうことなんだ。

あれから8年、彼女もう結婚したんだろうな。50号突破を記念して、もう一回会ってみたいよ。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
銭湯マップはこちら


2001年10月発行/52号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫