平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
アンタさあ、伊勢与市(いせのよいち)って名前知ってる? ン? 那須与一(なすのよいち)じゃないの、あれは源平盛衰記でしよ。アタシの聞いてんのは江戸の伊勢与市・・・・・・、知らないよねえ。実はこの伊勢与市ってぇ人がアタシら風呂屋のオヤジの元祖、つまり江戸銭湯のパイオニアなんだ。

そこで今日はアンタに「江戸の銭湯はどうして始まったか」をモノの本を開いて、ちょっと説明したいんだけど、聞いてくれる?

「天正19年卯年の夏の比(ころ)かとよ。伊勢与市といひし者、銭瓶(ぜにがめ)橋のほとりにせんたう風呂一つ立(たて)る。風呂銭は永楽一銭なり・・・・・・」

これ、慶長19年(1614)に当時のえらーい学者だった三浦浄心というセンセが『慶長見聞録』を出版した中に、お江戸の銭湯の始まりをこう書いてんだって。天正19年といやあ、1591年、今から409年も前ってことだ。ずいぶん古い話だよねえ。

ところが、お江戸は400年だけど、モノの本を繰っていくと、日本の銭湯の起源はなんと800年も前の西暦1200年にはもう奈良に公衆浴場と呼ばれるものがあったんだってさ。

さらに鎌倉、室町時代の京都、鎌倉辺りにも町湯と称した営業用の湯屋があり、「結構繁盛していた」なんて、見てきたようなことも書いてあんだ。

そして面白いことに、当時の皇室が幕府権勢のために衰微してしまい、お公家さんがすっかり貧乏になっちゃって自分ちで風呂も沸かせない。しょうがねえから衣冠束帯(いかんそくたい)に湯桶抱えて? 町湯へ来たんだって。「麿は湯浴みをするぞえなあ」と宣(のたま)ったかどうかは分からんが、こうなっちゃうと銭湯はもう皇室御用達ってことだよねえ。

さて、話を江戸に戻すけど、伊勢与市が銭湯第1号を立ち上げた、銭瓶橋は現在の呉服橋と常磐橋の中間にあったそうで、橋を架ける工事中に永楽銭の入った瓶が堀り出されたんで銭瓶橋――。

当時この銭瓶橋界隈は、家康の江戸城改修と町づくりのために諸国から建築資材が陸揚げされ、それにともなう人も集まり、大変な活況を見せていたらしいんだ。伊勢与市は銭瓶の縁起と町のにぎわいにヨシッと気合が入り、この地で一旗揚げようと上方の湯屋を開業したっていうんだな。

そこで与市ダンナの銭湯なんだけど、「与市は伊勢の住人だから伊勢風呂であろう」と書いてあり、「伊勢風呂は小屋の中に石を多く置き、その石を焼いて水を注ぎ湯気を立て、その上にスノコを設けて入る」と解説してんだ。つまり江戸の銭湯第1号は蒸し風呂だったんである。そしてこれがまたベラボーに熱かったらしく、さすがの江戸っ子も最初は入り口で立ち往生したなんてことも書いてあったな。しかし慣れりゃあ熱さも爽快(そうかい)感に変わってくる。で、お江戸初見参の与市風呂は江戸っ子の評判を呼び大いに繁盛したんだってさ。

この与市風呂の成功は折しも覇権を握った徳川ご城下の繁栄とも相まって、江戸の町に銭湯勃興の機運になったんだな。与市ダンナが創業してより20年後にはもう各町に1軒以上の湯屋ができちゃったっていうからすげえや。

湯屋の形態も初期の蒸し風呂に始まり、中期以降、板風呂、戸棚風呂、石榴(ざくろ)口から据(すえ)風呂へと変遷し、「江戸庶民の中に銭湯文化が大きく根を広げ愛されていったのである」ということなんだ。

ちょっと話が長くなっちゃったけど、銭瓶橋から400年続く銭湯文化――。アンタどう思う? 長~い歴史のある風呂屋をちょっぴり見直してくれた?


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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2000年4月発行/43号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫