平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
6時になる。鼻歌交じりで入って来た常連ダンナにいきなりバッサリやられてしまった。「オヤジッ!! 日焼けしてるぞっ。もう飲(や)ってきたなっ」
「エッヘッ、申し訳ない。昼間、忘年会で……」

この方、70を超しているが酒にカラオケが大好きだというなかなかの粋人である。
「ところでダンナ、浅草に“振袖さん”っていうコンパニオンがいるんだけど知ってますか?」
「フリソデ? 知らんなあ。呼んだのかい?」
「ええまあ。京都の舞妓をまねしたんですな。二十(はたち)ぐらいの若い女の子が、振袖を着て半玉マゲで踊りを披露したり、お酌をしたり……」
「フーン、半玉の振袖かあ。二十ねえ……」

ダンナ、も一つ「フ~ン」といい、ちょっと遠くを見るような目つきをなさった。
浴場組合の中には地域や出身地などによって、いろいろな研修会、親睦会がある。アタシも2~3顔を出しているが、それらの会合の大半が昼間に持たれるのである。何せ、風呂屋には放課後がない。営業終了は深夜になる。で、開店前の一時を使い交流を図ろうという寸法。つまりは往々にして昼酒ってことになっちゃうんですなあ。

今日もその一つ。「会うたびに不景気だ、暇だとこぼしているだけじゃしょうがねえ。忘年会ぐらいにぎやかにいこうよ。な、一つ明日への活力を付けようじゃねえか、活力を……」てなことで、明日への活力が振袖さん――。単純だねえ。

ま、そんなわけで本日は心ならずも? ほろよいフロントになってしまい、誠に申し訳なく思ってんです。しかしダンナねっ、おわかりいただけるでしょう、浮世の義理ってやつ――。

○月×日
「ダンナさん、お風呂がぬるい! みんながそう言ってるわよ」とフロントの小窓をたたかれたのは30年来の常連奥さん。もう80であろうが、年を感じさせないキリッとした方でもある。そして、湯加減についてはなかなか辛口なのである。「えっ、ぬるい?」、アタシャ、ドキッとした。

現在の銭湯の湯は自動調節になっているので、クレームがつくほどぬるくなることもないのだが、何せお一人だけではなく「みんなが言ってる」とおっしゃられたんでは民主主義の多数決よ。
「スワッ、故障!」と機械室へすっ飛んだ。が、温度調整は正常に作動している。制御盤の数字が「アタフタするな」と笑ってらあ。

たまたま、どなたかが埋め過ぎた後にお入りになったのであろう。ちょっとご猶予をいただければすぐ「いい湯」になったのである。

昔は、そう、昭和30年半ばまでかな。機械装置はすべて手動だった。ろくな温度計もない。浴槽、上がり湯などの温度は熟練の目と勘で調整したもんだ。手作りだったから時として「熱い、ぬるい」へのお小言もちょうだいしたが、人間が主役で絶えず考えて作業をしていたよなあ。

ところが現在は大半がオートマチック。自動化はお客さんに対して「常に適温、適量」のサービスなど、時代のすう勢であるが、半面、なんでも機械まかせでは人間が脇役になり、考えることを放棄してしまう。だからささいなことでもすぐアタフタするというだらしない始末さ。文明文化の発達は、ある意味で「人間をだめにするな」と大げさに考えたりもする。

さて、件(くだん)の奥さん。帰り際に「今日はいいお風呂だったわよ」と、ケロリとおっしゃった。アタシと年輪も違うが役者も違うわい。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1996年12月発行/23号に掲載


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「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫