平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
毎日みえる30前後の快活な青年。「おやっさん、細かいのがなくて……。今月はこれ1枚なんすよ」と1万円札を出した。「おっ、すごい、福沢諭吉か。お釣りがねえぞ。ところでアンタね、福沢諭吉って銭湯をやっていたことがあるんだけど知ってる?」

そう、『公衆浴場史』によれば、福沢諭吉が風呂屋をはじめた理由として「銭湯の入浴には上下の区別がなく士族・平民みな平等である。世人に自由平等を説くために、その垂範として自ら銭湯を経営された――」となっている。

なんでも明治8~9年ごろ、芝の三田通り、慶応義塾の真向かいに、以前からあった銭湯を譲り受け、これを貸していたらしい。直営ではない。

そりゃそうだろうよ。蘭学、英学の大家で慶応義塾などを創立したスゲエお人だ。間違っても風呂屋の釜焚きをするわけがないやね。この銭湯の家賃が1か月10円50銭で、当時の湯銭が5厘だとか。そしておもしろいことが書いてあった。

「客は当然ながら塾生が多い。しかし書生の入る湯はヌルイといって町家の人たちはよその湯に行くから1か月くらい家賃が滞ることもあったらしい。すると福沢さんから厳しい催促がくる――」

諭吉先生も、こと家賃に関しては相当ウルサイ風呂屋のダンナだったんだな。おそらくこの銭湯を借りていた人は、超弩級(ちょうどきゅう)のオーナーから理路整然たる取り立てを食らい、きりきり舞いをさせられたことだろうよ。気の毒にねえ。もっとも、
「先生は当時『帳合いの法』という著書を刊行し、金銭の出納を厳しく説述されたからであろう」
とも書かれているがね。

ま、なんにしても、お札になるような偉大なお人が風呂屋のオヤジだったんだ。青年よ、どう思う?

〇月×日
「ダンナッ、ダンナねっ。お風呂ン中で一緒に入っていたおばあさんにいわれたんだけどさ。えーと、なんだっけな。そう、肩から濡らして風呂へ入るとカゼを引かないんだって?」
中年のご常連奥さんが、スクープといわんばかりの口調でアタシにご報告なさる。

「昔からよくいわれてますよ。『湯に入るとき肩から濡らせばカゼ引かぬ』とか『まず乳を濡らせばカゼ引かぬ』なんてこともね」
「エッ、チチも? なんで肩や乳を濡らせばいいのよっ!?」

そんなふうに口をとんがらせたって困ります。アタシャ医者でも学者でもなく、しがない風呂屋のオヤジですから、ご説明は無理です。とにかく、そういうことになってんですよ。ねっ、奥さん――。

ところで「風呂のことわざ」の類いは結構多いのだ。奥さんに聞かれたついでなので、例によってモノの本から2~3引用させていただこう。

「風呂の中でお茶を飲むとカゼが治る」
というのもありますな。「じゃ、温泉につかりながら日本酒を飲んでるのは何に効くのよ!?」と奥さんなら多分こうおっしゃるでしょうね。

「湯にも入り水にも浸される」
熱い目に合わされ、冷たい目にも合わされる。休む暇もなくこき使われるってことですが、しかしそれで大成した人が多いんですよねえ。

「湯は水よりいでて水ならず」
氏素性は平凡でも、修行を積んで非凡の域に達するという意味らしいですが、なかなかねえ。

「風呂の上がりたては親でも惚れる」
銭湯の湯上がりは、ご年配の方でも魅力がありますよ。ねっ、奥さん――。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
銭湯マップはこちら


1996年2月発行/18号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫