平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月×日
男の子を連れた初老の男性が入浴後にフロントでおっしゃった。
「孫が遊びに来たので久しぶりに銭湯へ入ったけど、今の風呂は昔みたいにピリピリするような熱さじゃなくて入りやすいのね」
「ええ、前は42℃以上という規則があったんですけど、今は殺菌装置が進んでいるので、温度規制はなくなったんですよ」
確かに昔の風呂はピリピリした熱さだったよな。またお客さんもピリピリを好む方が多かったんだ。しかし温度設定の低い内風呂の普及に対応して、銭湯にさまざまな設備が導入されている近年は、むしろ低温でゆったりとした入浴傾向になっているんじゃないかな。
「熱湯(あつゆ)」と言えば、江戸から明治にかけては50℃が普通の温度で、それ以上の湯に15分から20分も入っていたんだってさ。50℃だよ、50℃。それに20分だよ。今の人ならちょっと手ぇ突っ込むだけで「アッチッチ」だろうよ。きゃしゃな人ならヤケドだよ。昔の人間はほんと頑丈にできていたんだねえ。
ところで、日本人が「熱湯」に入るようになった理由として、『風呂と湯の話』(武田勝蔵著・塙新書)に面白いことが書いてあったんで、ちょっと引用させていただこう。
「江戸時代の人は一般に熱湯を好んだが、特に定火消(じょうびけし)という連中や、町火消の類はその雄たるものであった。彼等は無頼の徒であり夏でも冬でも法被(はっぴ)1枚で1日3~4回湯銭も払わずに銭湯に通い、熱湯でゆでだこのように肌が赤くなるのを自慢し、もし他の客が水を埋めでもしようものなら烈火のごとく怒るので、みな我慢し、これで一般に熱湯好きとなった・・・・・・」
「町内の憎まれ者が熱湯好き」って古川柳にありましたな。
〇月×日
午後9時過ぎ、60前後と思われるおばちゃんがニコニコ笑いながら話し掛けてきた。初めての方である。
「あのう、フロント日記を書いている人でしょ? あの記事、面白いんでいつも楽しみにしてるんです」
ニコニコの、も一つニコニコとおっしゃった。
「それはそれは、ありがとうございます」
「一度お会いしたいと思って遠くから来たんです」
ホホウ、わざわざアタシに会いにねえ。顔を見にねえ。アタシャちょいと満足よ。ところがお客さん、アダシの顔を見ながら「ホントにまあそっくりで…」と言うや、それまでのニコニコから今度は大きな口を開けてゲラゲラ楽しそうにお笑いになったのである。
モシモシ・・・・・・。ウーンそうか――。フロント日記に描かれているアオシマチュウジ画伯のイラストと実物のアタシを見比べたんですな。あまりに似てるんで大笑いですか。確かにあのイラストは似てるもんなあ。
垂れ下がった三角のまゆ、細い目と大きなメガネ、それに白髪とシワ――。描かれた本人が「ウッホッ、よく似てるわい」と感心し思わず笑っちゃうもんねえ。
「そんなに似てますか?」
「もう、そっくり・・・・・・。アッハッハ、オッホッホッ」
これ、フツーなら怒っちゃうよ。初めての人にアッハッハッとやられたんだもん。ところがこの笑い、アタシにとってオチョクられてる感じはぜんぜんないんだな。むしろお客さんの親近感がアハハッ、オホホッと温かく伝わってくるんだよ。だから笑われてるアタシもなんとなく愉快になっちゃった。考えてみりゃ、イラストの持つ力ってスゴイもんだねえ。
そして「フロント日記」のイラストを見てはるばる首実検に来ていただくなんてありがたいことよ。おばちゃん、もっと豪快にウワッハッハッやカンラカンラと笑ったって構わないですよ。遠くからアリガトね。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
銭湯マップはこちら
1999年12月発行/41号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫