平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
午後9時、のっそりと2人のお相撲さんが入ってきた。近所の友綱部屋の若いお相撲さんである。1m80cmほどの男にもう一方がなんと1m98cmだという。フロントの前に小山ができた感じだよ。
「いい体だねえ。その体じゃじきに関取だな」
「ウッハッ、駄目ッス。見込み違い、ぜんぜん駄目ッス」

未来の日の下開山(ひのしたかいさん ※1)は屈託がない。墨田区には両国国技館を中心に多くの部屋があるから銭湯にも時折お相撲さんがノレンをくぐってくるんだ。ちなみに1m98cmの150kgでも、1m48cmの40 kgでも入浴料金は等しく385円しか頂かないよ。

ところで、お相撲さんといえば墨田の風呂屋から第6代横綱・羽黒山政司が出ているんだ。ご存じかな。少々古い話だが羽黒山は昭和4年の暮れに15歳で新潟県西蒲原郡羽黒在から伯母が経営する両国の「朝日湯」を頼って上京し、風呂屋のオヤジを目指して下働きから4年間みっちり修行したアタシらの大先輩なんでさあ。

当時から筋骨隆々の体と怪力は評判で、近所にある立浪部屋の親方がその素質にぞっこんとなり日参して口説いたというんだな。昭和8年19歳で立浪部屋へ入門し、昭和16年、期待通り綱を締め、在位12年、鉄人横綱と言われたんである(広井忠男著・羽黒山物語)。

アタシが風呂屋稼業の取的(とりてき ※2)時代、当時の親方が同郷の羽黒山をタニマチ的に応援していたんだ。時折、横綱を自宅に招待するんだけど、そんなときはもう朝から念入りに掃除をさせられ、使い走りに追い回されたっけ。そして言われたよ。「羽黒も元は湯屋の番頭だったんだ。人一倍努力する人間は必ず大成する。お前も頑張れ」。

あれから10余年。思えばアタシャ努力が人の半分だった――。

(※1)日の下開山:横綱の別称
(※2)取的:下級力士の俗称

 

〇月×日
風呂屋に英語が飛び交った。アメリカ人の家族がお見えになったんだ。ご主人がアメリカ人で奥さんが日本人という30代のご夫婦。そして3歳と2歳の男の子に60前後の奥さんのお母さん、つまり日本人のおばあさんというメンバーなんだが、子供2人がお父さんそっくりの茶髪に青い目であり、家族の会話はもちろん英語。おばあさんも英語を使うんだぜ、スゴイよ。だからオールアメリカンの雰囲気さ。そのおばあさんがアタシにご説明くださった。
「娘たちはアメリカのケンタッキー州に住んでるの。向こうにはこういうお風呂がないもんだからもうみんな喜んじゃって……」

ホホウ、ケンタッキーから墨田へ里帰りですか。そしてみなさん喜んでくれましたか。そうですかそうですか。ウン、銭湯のよさは国境を越えましたな――。アタシも単純に喜んじゃったよ。

ところで、このアメリカのご主人が滅法明るいんだ。脱衣場で子供と大声でしゃべり、仕切り越しに女湯の奥さんにも声を掛けてる。流ちょうなイングリッシュがフロントへびんびん響いてくるんだ。アタシャつらつら思ったね。「ウーン、江戸時代から500年の伝統を誇るわが銭湯にも国際化の波が押し寄せてきたか。こりゃフロントも日本語だけしゃべってる時代じゃねえな」と大仰な感慨にふけっていたら突然ドタンと音がして子供が泣き出した。アタシャ何事ならんと飛んでった。脱衣場で転んだらしい。お父さんが「ダイジョブデース」と今度は日本語で答えたが、そばにいた初老の常連ダンナがアタシに言った。「外人さんでも泣くときは日本語だな」。

あと数日で帰国されるらしいが、銭湯のいい思い出をケンタッキーへ持ち帰ってください。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1999年4月発行/37号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫