平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月×日
『1010』の裏表紙にある「ゆ」(銭湯のシンボルマーク。文末参照)を指さしながら、40前後の男性がフロントへ問いかけてきた。時折見える方である。
「この赤いマークは銭湯のマークなの?」
「ああこれ、そうですよ。うちの表の看板にも入っていますけど、ひらがなの『ゆ』をアレンジしてんです。左が子供で右が大人ということで、親子の触れ合いマークとなっているんですよ」
「フーン、銭湯の印はあの温泉マークかと思っていたけど、そうなの、フーン」
フーンフーンで、おわかりいただけたのかな。
公衆浴場のシンボルマークが制定されたのは昭和63年であり、もう10年以上たつ。各浴場の看板等で使用されているんだが、どうも知らない方が多いようだ。いかんですな。そこでアタシャ早速常連さんにアンケートを試みた次第。
まず中年のご婦人。
「あら、知らなかったわ。でもいいマークね」
お褒めを頂いたが、つまりはマイナス1点。
「えっ、フロ屋のマーク? 知らねえッ」
いとも簡単に切り捨てたのはご年配の男性。
じゃ子供はどうだろう子供は。小3の男の子だ。
「ボク知らない。こんなのあったの?」
関係ないよとすげない態度。マイナス3点だ。やっぱりいかんなあ。そこへ現れた50代の静かなご夫婦。よしっ、このお2人なら大丈夫――。
「そうですか、知らなかったですねえ、これがお風呂屋のマークですか。最近できたんですか?」
あーあ、逆に質問されたんでは返り討ちだよ。それにしてもオールマイナスとはねえ。
お客さんさァ、「ゆ」が全国の公衆浴場のシンボルマークなんですよ。覚えてくださいねッ。
〇月×日
フロントは「よろず取次所」でもある。お風呂で顔見知りになり、親しくなると、お客さん同士でさまざまな情報が交換される。そして、その情報交換によってフロントが機能するのである。
「これ、だれだれさんに渡して。フロントに預けておくって話してあるから・・・・・・」と依頼される。
つまり、親しくなったといっても、いつも同じ時間に入浴するとは限らない。そこで連絡等がフロント経由になるのである。言うなれば、お客さんの交流のキーステーションってことですかな。
さて、今日も「取り次ぎ」を承った。70ほどの奥さん「この前80ぐらいの白髪のおばあさんに××を頂いたのよ。あたし、いつも会ってんだけど名前知らないの。小柄でシラガのおばあさん・・・・・・。そのおばあさんに、これ渡してほしいの」
80過ぎれば、皆さん白髪になるけどな。アタシャ常連さんの80以上のシラガさんを急ピッチで思い浮かべる。エート、ウーントである。毎日のフロント稼業だ。いくら鈍くても、エーウーンと力めばだいたいの見当はついてくる。
「ああ、わかりました。○○さんですよ」
そして後刻、そのおばあちゃんに品物を渡したんである。おばあちゃんなんて言ったと思う?
「あたし、その人の顔知らんよ。もう83だろ、忘れっぽくてしょうがないんだ」。ヤだねえ。
「知らないって、ホラ、おばあちゃんが先日××をあげたでしょ。ホラ、いつも会うと話をしている70ぐらいのヤセ形の奥さん・・・・・・」
今度はアタシが説明する番になっちゃった。おばあちゃん、アタシの「ホラ、ホラ」に、そのうち「そういえば・・・・・・」と、ニコッとしてくれた。
お客さんが銭湯を「触れ合いの場」として交流を深めていく――。アタシャほんとにうれしいね。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1999年2月発行/36号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫