平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
〇月×日
雨が小止みなく降っている。客足が鈍い。
「ダンナッ、ヒマそうだねえ」
と声を掛けてきたのは50代半ばの常連男性氏。
「ええ、こう降られたんじゃ開店休業ですわ」
「退屈だと番台が懐かしくなるんじゃないの」
オンヤ? この方番台が懐かしいだろうとは、何をご想像なさるのやら。そして続けなさった。
「フロントと違って、番台はいいだろうねえ、おれもいっぺん座ってみたいよ」
このセリフは世の男性方から冗談交じりによく聞かされるが、風呂屋のオヤジに言わせりゃ「番台とは結構厳しく、興味本意で座れる場所ではありませんぞ!」となる。ちょいとご説明しよう。
番台はその職務上店内すべてを見渡せる位置にある。しかし逆に言えば店内の四方からいつもお客さんに見られている場所でもあるんだ。これが厳しいんだな。シロウトが上がってごらんよ。
「あらっ、けったいな男が座ってる、やあねえ」
「なんかさえない男ねえ、ヤな目付き……」
てな調子で、なまじ一段高い場所だから、珍しい見せ物でも眺めるような視線があちこちから飛んでくるんだぜ、それも入れ代わり立ち代わりだ。どうする? もう四角い台上でさらし者の心境よ。ボ~ッとしてお客さんの顔を見るどころか、肝心の風呂銭もらうことも忘れちまって、モジモジ下向いてんのが関の山さ。ホントだよ。
アタシが番台に初登板したのはこの稼業に入って10年ほどたち、浴場が手不足になってからだったが、風呂屋の裏方として10年選手のアタシでも、当座はあの小高い丘にかなりのプレッシャーを感じ、必要以外は本ばっかり見てたもんな。
番台とはそんな場所なんだ。気安く「座ってみたい」なんて、お客さん、とても無理よ。
〇月×日
「おじさん、しばらくです。覚えてますか?」
開店早々、見慣れない2人連れの高校生が現れ、そのうちの1人がアタシにあいさつをする。「前に来ていた○○ですよ」
「おうオマエかあ。でっかくなっちゃったなあ」
引っ越してからもう10年になるという。
「近くの友達の所へ来たので、懐かしいから風呂へ入っていこうと寄ってみたんです……」
オッ! 言葉遣いもすっかり大人だ。
「おじさん、白髪が増えましたねえ」
オイッ! 余計な言葉遣いもすっかり大人だ。
「番台がなくなって、今はフロントって言うんですか。変わりましたねえ」
そういえばこの坊主、じゃない学生クン、番台でアタシとよくふざけていたっけなあ。「だけど、フロントは僕でもわかるけど、番台はなんで番台って言うんですか?」
ホウ! 質問もすっかり大人だ。
「江戸時代にね、銭湯で働く男の人を『番頭』と呼んでいたんだな。『番頭さん』なんて聞いたことがあるだろ。しかし『番頭』というのは本来、店の頭である主人のことなんだ。その主人が座る席ということで番台と呼ばれたらしいよ」
「そうですかあ、詳しいんですねえ」
学生クン、ちょっぴりほめてくれたが、なあに前に読んだモノの本の受け売りさ。
ところで、江戸以外の地方では番台を「高座」あるいは「銭取り場」と呼んでいたとも書いてあったな。しかし、高座はともかく番台が「銭取り場」ではあまりに直截(ちょくせつ)だ。そうなりゃアタシはさしずめ銭取り係――これじゃあどうもすっきりしねえので、学生クンにはこの話をしなかった。
【著者プロフィール】
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。
【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年10月発行/28号に掲載
銭湯経営者の著作はこちら
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫