平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


〇月×日
4時半のフロント。一番風呂にお入りになったご老体が、湯上がりの一服をつけながらアタシにおっしゃる。和服のイキな感じの方である。

「ご主人。この間、仲間から聞いたんだけど、お風呂屋の2階がカラオケボックスになっている銭湯があるんだってねえ」
「ええ、最近は2階を休憩室にして、カラオケや喫茶室など、いろんな設備を備えた浴場がありますよ。お客さんはカラオケ、やるんですか?」
「うん、カラオケは大好きだねえ」
ホウ、小唄、都々逸(どどいつ)かと思ったが――。

「銭湯の2階が休憩室」の形態は江戸時代が全盛であった。モノの本によれば、江戸中期以降、ほとんどの銭湯が2階を浴客に開放し、湯茶のサービスから囲碁将棋などをそろえ、そば、すしの出前にマッサージ師も呼ぶことができたそうだ。

酒とばくちに泊まりはご法度というから健全なクラブだったんだな。そして、いずこの銭湯も「二階風呂」として大繁盛だったと書いてある。

ところが、繁盛してんだからほどほどにしとけばいいものを刺激が欲しかったのかねえ。幕末から明治にかけて健全なはずの2階に女性を置くようになり、脂粉(しふん)の香りが主流という健全ならざる世界に変ぼうしちゃったんだ。そしてこれがまた大当たりで吉原遊郭が暇んなるほどだったという。

しかしこうなると今度はお上が黙っちゃいない。「風俗を紊乱(びんらん)する営業はまかりならん」のキツーイお達しで、明治18年、二階風呂の設備そのものから廃止の憂き目を見ちゃったという。だから言わんこっちゃない。

時経て、カラオケに喫茶室の現代の二階風呂は、ご老体が気楽にマイクを握れる健全な憩いの場所である。間違っても風俗紊乱はない。

〇月×日
「あ~あ、おしゃべりしてゆっくりし過ぎちゃった」と急ぎ足で出てきた中年の奥さん。長居してごめんなさい、とも付け加えなさった。

「いえいえ、とんでもない。いまの銭湯は体を洗うだけの風呂じゃないんです。脱衣場でのんびりするのも風呂のうちですから。もっとゆっくりしていってくださいよ」
アタシは必ずこう言う。別にお世辞じゃない。ほんとにそう思っている。

「ええ、アリガト。でもねえ、うちのダンナ、ちょっと帰りが遅いと、どっかで何かしてるんじゃないかってうるさいのよ。ホッホッ」
ホッホ……か。それじゃあのんびりできないな。

かつて銭湯が混雑を極めた時代は、お客さんの回転を速くするため「長湯」を敬遠したが、現在はまるで逆。ゆったりとくつろげる空間――それこそが銭湯だとアタシは認識している。

銭湯のよさを十分に味わっていただくためには、浴室で、脱衣場で、ゆっくり、ゆったりであることが必須条件。せかせかはイカンのです。

「あたしは速いんだ。カラスの行水よ」なんて言われることもあるが、フロントとしては誠に不本意で「人間がカラスのまねをするこたァありません。もっとゆっくり入ってくださいよォ」となるのである。

お客さんが「のんびり銭湯を楽しむ」ことができれば、それはもう狭い内風呂の比ではないと、アタシは思い込んでいる。

憩い、くつろぎ、安らぎ、ゆとり……もうないかな。とにかく、こんなものがみ~んな詰まっているのが銭湯だと、ついでにも一つ思い込ませてもらおう。


【著者プロフィール】 
星野 剛(ほしの つよし) 昭和9(1934)年渋谷区氷川町の「鯉の湯」に生まれる。昭和18(1943)年戦火を逃れ新潟へ疎開。昭和25(1950)年に上京し台東区竹町の「松の湯」で修業。昭和27(1952)年、父親と現在の墨田区業平で「さくら湯」を開業。平成24(2012)年逝去。著書に『風呂屋のオヤジの番台日記』『湯屋番五十年 銭湯その世界』『風呂屋のオヤジの日々往来』がある。

【DATA】さくら湯(墨田区|押上駅)
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1997年2月発行/24号に掲載


銭湯経営者の著作はこちら

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)

 

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫