「えーお二階さん、こんばんは」という鼻にかかった声を思い出したのは、浅草演芸場で行われた「正岡子規を偲ぶ新内のひととき」の会でのこと。
昭和の初め、浅草千束の花柳界では、待合の二階の窓に向かって新内流しが声をかけていた。
新内流しが来る時間は夜もふけたころ、宵の口には寝かされていた子供の私が、寝ぼけまなこで手洗いに起きる時分。「えーお二階さんこんばんは」の声は当然夢うつつで聞いていたはず、それをこの歳になって思い出したとはなんという不思議。それは、新内のひとときのおかげ。
幕が開くと、客席の後ろから聞こえる三味線の音に振り向く。弾きながらの登場は演奏者の岡本宮之助と女性の二人。「ご夫婦よ」と隣の友人の声。そう言われれば呼吸の合った二人の演奏に納得。
「今じゃ流していたら自動車に轢(ひ)かれちゃいますから」とちょっと客席を笑わせた岡本氏。頭にかぶった手ぬぐいの吉原かぶりの説明から、新内は心中や駆け落ちが主題など、また「新内」と呼ばれるようになったのは、その一門に特別な美声の持ち主、新内さんの名前からきているということなどなど懇切丁寧な説明。そのあと客席からの男性のかけ声でいよいよ「蘭蝶(らんちょう)」の出だし、「縁でこそあれ末かけて」の口説(くど)きとなる。
「いい声ね」 ご一緒した友人の感嘆の一言。場内はシーンとしてうっとり美しい声に聞き惚れる。しばらくその声にしびれていると、二人はいつの間にか客席の後ろへ退場、幕となる。
その日は「正岡子規を偲ぶ会」とあって、次の演目は野球の好きな子規に因んで、作詞・上野重光、作曲・岡本宮之助の新作「子規・のぼさん」が演奏されるとか。新内といえば誰しも、着流し姿に三味線を抱えた姿を想像するのはごく自然、まして花柳界で育った私の記憶にある新内流しのスタイルは、縞(しま)の着物に雪駄である。
ところが静々と幕が開いた次の舞台には、見台を前に黒紋付に袴姿という、着流し姿とは打って変わった格調高い姿にお色直しのお二人。
新作は、それまでの心中・駆け落ちとは趣きも変わり、結核の兄、子規を懸命に看病する妹律の兄妹愛のものがたり。「痛い、痛い」と訴える子規を一心になだめすかして介抱に余念のない律の姿を語る。高音の哀調ある調べに、客席は静まる。
幕が下りて、余韻にひたりながら会場を後にする。その時、「瓢箪池(※)がなくなって寂しいわ」と池のあった時代を懐かしむ人の声が聞こえた。帰り道には「寿司屋横丁に寄りましょうか」と友人。「いいですね」と賛成の私。
(※)現在の浅草ウインズ(JRA場外馬券売場)のあたりにあった池。昭和26年に埋め立てられて姿を消した
【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。
挿絵:笠原五夫(かさはらいつお)
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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2009年10月発行/100号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)
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