『百年の孤独』とはガルシア・マルケスの世界的な傑作小説だが、「百年の愛情」を感じることのできる銭湯が、世界一の本の街・神保町にある。

「コロナのころは大変でしたが、ようやく落ち着いてきて、お客さんもだいぶ戻ってきましたね」
にこやかに笑うのは、梅の湯の野崎正徳さん。神保町の地で長く愛され続けている銭湯を、お兄さんの伸二さんと共に支えている。

地下鉄半蔵門線の神保町駅A2出口から上がり、専大前交差点から路地に入るとすぐに現れる梅の湯。創業はなんと大正時代で、百年の歴史を誇る。現在は2000年初頭に建てられたマンションの1階に入っているビル型の銭湯だが、それまではずっと宮造りの木造建物の銭湯であった。

神保町専大前交差点。平日はオフィス街としてもにぎわっている

営業時間は15:00~22:00。日曜・祝日が定休日

三代目の野崎英子さん(87歳)が昔を懐かしく振り返る。
「創業者は石川県の出身だそうです。大正、昭和とこの地で続けてきました。戦争でも焼けなかったという幸運もあったのですけれど。私がこの家に嫁いできたのは1960年代ですが、主人が亡くなるまでは夫婦で一緒に働いてきました。今は、二人の息子がしっかりと継いでくれています」

改装前の梅の湯を描いた絵が入り口に飾られてある

銭湯ランナーのためにシューズ置き場を設置

神保町駅のとなりの九段下駅に近い皇居のお堀の周りは、毎日多くのアマチュアランナーが走っている。正徳さんによると、現在の梅の湯を大きく支えているのが銭湯ランナーだという。
「ここ十年くらいのブームでしょうか? かなり走る人が増えましたね。男性が多いですけど、女性のランナーも結構いますね。数人のグループで来る方もいらっしゃいます。カラフルなランニングシャツに着替えて走りに行かれますね。特にランナーの方に配慮はしていませんが、入り口にランニング用のシューズ置き場は作っています」
梅の湯を訪れるランナーのみなさんは、とてもマナーがよいとのこと。
「やはり近くの大手町など大企業に勤めるエリートサラリーマンが多いのでしょうか?」と聞くと、「どこにお勤めかは、さすがに分かりませんね」と笑う正徳さん。

銭湯ランナーが自由に利用できるシューズ置き場

「銭湯のお仕事において、なにか困ることはありますか?」
と聞くと、最近インバウンドで増えている外国人旅行者への対応があるとのこと。
「やっぱり、外国の方には銭湯が珍しいんでしょうね。多くの外国人旅行者が最近はいらっしゃるようになりました。いちおう英語で書かれた入浴マナーの紙は用意しているんですが、細かい内容については上手に説明できないこともあります。英語以外の言語を話す方もいらっしゃいますし。団体でいらした外国人の方をまとめるガイド役の方が入浴の仕方を正しく伝えてないこともありました。たとえば男性の方で、水着で湯船に入ろうとしたり(笑)」
神保町の古書店では江戸時代の銭湯の様子を描いた浮世絵も販売されていて、外国人にも人気である。しかし、お話を聞いていると、なかなか現代の異文化交流もたいへんなものである。

ロッカーの上に掲げられた江戸風味の浮世絵(男湯)

さらに、銭湯が珍しい外国人観光客ではなく、今の時代ならではの困ったお客さんに出くわすこともあるという。

「何も持たずに銭湯に来る若い人がいるんですよね。うちは有料の貸しタオルのサービスがあるので、入る前にいってくれればいいんですけれど、入浴してから、出てくるときに拭くものがないから脱衣場がびしょびしょになってしまったり。きっと、備え付けのタオルがある健康ランドとかには行ったことがあっても、銭湯は初めて入るような若い人も今は増えているんでしょうね。どんな方でも、銭湯に初めて入る場合は、ひとこと声をかけてくれればと思いますね」
とやさしく話す正徳さん。

生まれたときから家やマンションにお風呂があるという平成生まれの若い人の中には、銭湯とは健康ランドと同じように、無料で使い放題のタオルが置いてある施設と勘違いしている場合もあるのかもしれない。国内外問わず、どんな国の人であろうと、銭湯もマナーは大切だ。

脱衣場には「おふろの入り方」のポスターも貼られている(男湯)

本の街ならではの“忘れ物”も

2023年現在、神保町には130店の書店があるという(神田神保町オフィシャルサイト「BOOKTOWNじんぼう」調べ)。百年という長い間にわたってお客さんの気持ちに寄り添ってきた梅の湯。本の街・神保町の銭湯ならではという光景も見られるという。
「忘れ物で、本があったりします(笑)。きっと書店に寄った帰りだったんでしょう。やはり、コロナが明けてから本屋も活気をだいぶ取り戻してきたみたいですね」

実は、筆者も古本屋巡りが趣味で、本屋に寄った帰りにときどき梅の湯に立ち寄ることもある。
「自分は夕方に来ることが多いんです。男湯は静かなんですが、女湯からは大きな笑い声が聞こえてくることがありますよね」
と個人的にカミングアウトしたところ、
「その笑い声は、私でしょうね。きっと」
と傍らで聞いていた英子さんが答えてくださった。
「店を開ける午後3時の早いうちに女湯に入るんですけれど、近所のお友達がやってくるんです。『最近どう?』『体の調子は大丈夫?』とか、みんなで声を掛け合っているんです。私がいちばん年上かって? いえいえ、もっと上の90代の“お姉さん”もいらっしゃるんですよ(笑)」
まさに“人生百年時代”を感じさせてくれる、お元気な話だ。神保町の書店街では古い本の面白さを発見することができるが、人間もまた長生きしたからこその素晴らしさがあるのは間違いない。

もちろん神保町という街の魅力は本だけに限らない。少し足を延ばせば日本武道館や東京ドームといった巨大施設がある。正徳さんがいう。
「今日は華やかな感じの若い人が多いなあと思ったら、東京ドームや武道館でアイドルのコンサートがあって、その帰りのお客さんだったりとか。やっぱり、普段来る地元のお客さんとは全然雰囲気が違いますよね。見ていて楽しそうな感じが伝わってきます。そういったライブも、最近はまた数が増えてきているようですね。やっぱり汗をかいたあと、ひと風呂浴びながら興奮したイベントの余韻にひたりたいというのはあるんでしょうか」

さらに九段下を上がると靖国神社がある。夏のお祭りの後なども、お客さんの数は増えるという。
「この辺りは歴史がある街だというのは強く感じますね。地元を大切にしている人はとても多いと思います。タレントでコメディアンの三宅裕司さんは近くのお生まれなんですが、この銭湯に入りに来てくださったこともあるんですよ。私も地元で育ってきたので、大きな書店や古書店の経営者の友達もたくさんいます。みんなもう50代で、さまざまな経験をしてきましたが、銭湯と本屋では業界が違うので、特に仕事の面で協力し合うということもありません。でも、彼ら幼馴染に会うと『お互い、なんとか商売をやっていて不思議だよなあ』というのはありますね(笑)」

家族の絆を大切にして「これからも長く続けていきたい」

ビル型銭湯になった現在の梅の湯のカランの数は、男湯・女湯ともに15個。立ちシャワーがあり、湯船の一角には電気風呂、ボデージェット、ハイパワージェットの三つがコンパクトながら機能的に設置されている。混んでいなければ順番に楽しむことも可能である。ちなみに筆者のお気に入りは、縦に二つ並んで水圧がかかってくるハイパワージェット。肩と腰、胸と腹など、異なる2ヵ所に当たるジェットのバランスを自分で位置を変えながら調整すると、本屋巡りの足の疲れを見事に取ってくれる。

スペースを上手に使いL字型の湯舟になっている(女湯)

左から電気風呂、ボデージェット、ハイパワージェット(女湯)

走った後の汗を流すのに便利な立ちシャワー(男湯)

水回りまで丁寧に掃除が行き届いて清潔な浴室(男湯)

都会のジャングルの中のオアシス、といった風情の梅の湯だが、思えば本もそもそも原材料は木を切って作った紙からできている。書店に囲まれた銭湯こそ、“アーバン・ジャングル最強の癒しスポット”なのかもしれない。

最後に、正徳さんに
「これから梅の湯の経営において心がけていきたいことは何ですか?」
と聞くと
「そういうのは特に意識していません。強いていうと、長く続けていきたいということだけでしょうか。このあたりの銭湯もうちだけになってしまいましたからね」
としっかりとしたお答えをいただいた。
その様子をニッコリと見つめるお母さまの英子さん。
「銭湯の受付を撮るのなら、私ではなく母でお願いします。うちのアイドルですから(笑)」
と、あくまでもお母さまを立てる正徳さん。これまでの梅の湯を支えてきたお母さまを心から尊敬しているのが伝わってきた。まさに銭湯ファミリーの絆といえるだろう。これにはどんな心温まる小説も敵わない。

お元気な英子さん。開店すぐにいらっしゃることが多いという

おしゃれな喫茶店やおいしいカレー屋さんがたくさんある神保町。新刊を探したり、古本街を巡ったあとは、コーヒーやカレーもいいけれど、さっぱりと汗を流すのも素敵ではないか。
本を読んでから銭湯に入るか、銭湯に入ってから本を読むか。
いずれにせよ、きっと最高の体験ができるだろう。「百年の愛情」とともに。
(写真・文:銭湯ライター  目崎敬三


【DATA】
梅の湯(千代田区|神保町駅)
●銭湯お遍路番号:千代田区 2番
●住所:千代田区神田神保町2-8-2(銭湯マップはこちら
●TEL:03-3261-5897
●営業時間:15~22時
●定休日:日曜・祝日
●交通:都営新宿線・都営三田線・東京メトロ半蔵門線「神保町」駅下車、徒歩1分

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