平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。


天神様といえば私は亀戸を想う。ところが息子は東京では湯島だという。
「お母さんは子供の頃、亀戸に住んでいたからそう思うのよ」
と娘もそばから口を出す。

1月中頃、友達から初天神に案内してほしい、と電話があった。

つまり、その日天満宮で鷽(うそ)替えもしたいということ。鷽替えとは木製の鷽に、去年の罪や穢れを託して、新しく福を呼ぶ鷽に替える、というまことに都合のいい神事を言う。もっとも私の子供の頃はお客さんがくるように、と水商売の人の参拝が多かったらしいが、最近では学問の神様の菅原道真公のお力を頼みに、もっぱら合格祈願の方で有名になっている。

30年前の話ですが、私も天神様は湯島という息子の受験の時には朝早く新宿から湯島を通り過ぎて亀戸までお願いに来た。 ああ、なつかしい。亀戸駅から15分も歩いた頃、混雑している神社の鳥居の前に出た。とてもすぐには鷽は替えられそうもない。
「裏から入りましょうよ」
知ったかぶりをする私。案内の私の後を大人しくついてくる友達2人。
「あっ、この川じゃない、 島田さんが戦災に遇ったのは」
私から何度も戦災の話を聞かされたことのあるAさんの声。
「渡ったのはどの橋?」とBさん。
「あの先にみえる橋」と説明する私。
あの時の惨事が嘘のように、横十間川は悠々と流れている。

「川には太い丸太の筏(いかだ)が浮いていたのよ」
言いながら川を覗くが、丸太一本も浮んでいない。
「あの夜(3月10日)は筏の上に人が一杯で、私は泳げないから川へ飛び込まなかったけど」
「よかったわねえ、飛び込んだら今ここにいない」
「そう」

続いて田舎へ疎開していたAさん。
「焼夷弾って、下へ落ちてから破裂するの? それとも空中で破裂するの?」
の質問。逃げるのに精一杯だった私は俯(うつむ)いてばかり、上を見る余裕もなかった。
「そんなことがあったのに、川は昔のままなんて、寂しいわね」
川へ目を移す優しい人Bさん。

話題を変えなければと責任を感じる私。
「その頃くず餅の配給があって、船橋屋に並んだのよ、浅草の雷おこしにもよ」
「じゃあ帰りにぜひ船橋屋へ寄りましょ」と気分を変え脇の門から境内へ。

拝殿では柏手を打つ。後は行列のしっぽについて、 鷽を替える。
「天神様の境内って、まるで浮世絵を見ているみたいね」
朱塗りの太鼓橋を渡るBさん。
「子供の頃毎朝犬の散歩に太鼓橋を渡ったのよ」
「そう」
とわいわいがやがや。

天神様へは孫の合格を祈り鷽替えも無事終わり、次はいよいよ船橋屋。
「やっと食べられる」と3人が喜び勇んで行った船橋屋には長い行列ができていた。


【作者プロフィール】
文:島田和世(しまだかずよ)
昭和5(1930)年、東京浅草生まれ。博徒の父と芸者屋を営む母のもと、終戦まで浅草・谷中・亀戸などで育った生粋の下町娘。著書に短編集『橋は燃えていた』(白の森社)、小説『水鳥』、句集『海溝図』(ふらんす堂)、自伝『市井に生きる』(驢馬出版)、『浅草育ち』(右文書院)がある。

挿絵:笠原五夫(かさはらいつお) 
昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。
なお、「松の湯」は長男が引き継ぎ、現在も営業中である。

【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
銭湯マップはこちら


2007年12月発行/89号に掲載


■銭湯経営者の著作はこちら

「東京銭湯 三國志」笠原五夫

 

 

「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫

 

「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛

 

「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)


銭湯PR誌『1010』の最新号は都内の銭湯、東京都の美術館、都営地下鉄の一部の駅などで配布中です! 詳細はこちらをご覧ください。

157号(2023年12月発行)

 

156号(2023年9月発行)

 

155号(2023年6月発行)