「ペンキ絵と天井や床を一年に一度塗り替える理由はきれいを保ちたいから。でも、オヤジの道楽だっていうお客さんもいるね」
赤富士、黄金富士、雪帽子をかぶった富士山……。毎年、浴室内のペンキ絵が変わることで知られる松原湯のご主人・西沢宏明さん。お客様が塗り替えに気が付かないほど、いつも店内はきれいな状態が定番の銭湯だ。
今回の東京銭湯物語は、時に厳しく、時に優しく、楽しかった思い出を交えて、粋な風呂屋のオヤジ語りをお届けする。

 

京王線、井の頭線・明大前駅から徒歩5分。 駅前のにぎわいを抜け、京王線の線路沿いに下高井戸駅方面に歩くと松原湯の煙突が見えてくる。周辺には明治大学をはじめ複数の高校もあり、学生たちの姿が多く見受けられる。

 

■ 松原湯の成り立ちについて
松原湯の初代は、元は大工だったが、船に備える冷蔵庫の製造業に商売替えをし、その後、現在の松原湯を創業したという。松原湯は西沢さんが中学生の頃にはあったというから、創業70年を超える老舗である。

「この風呂屋(松原湯)はオヤジが始めた商売で、建物は昭和24(1949)年頃に建てた。俺は2代目で、継いだ時はオヤジが50代。俺は30代の頃だったから、もう50年近く風呂屋家業をやっているんだねぇ」と振り返る西沢さん。

「長男だから家業を継ぐのは当然な時代で、迷うことなんて考えなかった。その点は今とは違うよねぇ。経理事務所に勤めた後、電気設備の仕事もやって、風呂屋に活かせる経験を積んだから、風呂屋を継いでから困ることなんてなかったよ」

■ 家族で経営している?
「かつては番頭さんがいた時もあったけど、基本は家族経営。うちのカミさんは、貸しロッカーを借りているお客様が了承している方のみ、毎日タオルを干してロッカーに戻してあげているんだ。次、使う時に乾いたタオルを使ってほしいからって毎日、干しているんだよ。もう何十年もやっていることだけど、タオルをロッカーに戻す時に入れ違えることなんてないんだから、凄いよね。うちの店が綺麗を保てるのは、カミさんをはじめ家族の支えがあるからなんだ。俺、一人じゃ到底できないからね 」

■ 創業して70年。改装などはしている?
「平成17(2004)年に改装した。昔、銭湯のことをわかっている腕のいい大工さんを紹介してもらってね。もう長い付き合いで信頼もできるから、改装を依頼したら気配りが行き届いた店になった 」

■ 改装時の思い出深いエピソードは?
「瓦屋根を下ろしたことかな。以前は宮造りの瓦屋根だったんだけど、店の横を走る電車の振動で瓦が落ちるし、ずれるし、ずれた所にスズメが巣を作ったり。瓦屋根を下ろしたいけど、オヤジが残してくれた脱衣場の格天井をなくしたくなくて、大工に相談したら、『この立派な格天井を残したまま屋根を下ろしてやる』っていうから任せたんだ。そしたら、見事な仕事をしてくれたよ」
重厚感ある空間を醸し出す、雰囲気ある美しい格天井は腕のいい大工さんによって守られたんだ、と天井を見上げた。

匠の技で残した美しい格天井。時間帯によっては日差しが入り、さらにきれいに輝く

年中、ピカピカな床。無駄なものがなくスッキリとした清潔感ある脱衣場

■ 浴室について
「改装の時に、一人一人ゆったり使ってもらいたいからカランの数を減らしたんだ。それに背向かいの人の湯水がかからないように広めの通路にして。立ちシャワーもうちは横向きにして、通路に面して湯水が飛ばないようになっているんだ」
確かに一人あたりのスペースと通路の幅は一目でわかるくらい広い。よく聞く「人の湯水がかかった」というトラブルは、松原湯ではなかなかないだろうと感じた。

カランとカランの間が広く、ゆったりとした洗い場。コロナ禍の新生活様式に適している

ここで松原湯の浴室環境をご紹介したい。浴室内は天井が高く開放的で、圧迫感とは無縁だ。その空間に設置された湯船には3つのくつろぎがある。一つ目は手足を伸ばし、冷水枕で首を冷やしながら浸かれるリラックスジェット。2つ目は背中を心地よく刺激するボディジェット。3つ目はジェットがない静かに浸かれる浴槽。いずれも40度前後の温度で浸かりやすい。熱いお湯はちょっと……という方には松原湯をオススメしたい。

毎年銭湯絵師の中島盛夫氏によって描き替えられるペンキ絵の富士山(男湯)

今年(2021年)は10月22日に描き替えたばかりでいつもにも増してきれい(女湯)

お風呂は3種類。いずれも手足を十分にのばせる広さ

お湯の温度は40℃前後で浸かりやすい

■ 世田谷組合の研修旅行の思い出
ここでは旅の思い出話をお届けする。私は松原湯の隣湯に位置する宇田川湯の娘で、西沢さんと私の父はお互い年齢も近く、父は西沢さんを「兄ぃ」と呼ぶ仲だ。かつて世田谷組合は年に一度の研修旅行があり、一斉休業をして1泊2日で国内旅行をしていた。今回、京都での思い出をうかがうことができた。
「あんたのお父さんにはよくカモられたよ(笑)。でも、こっちもそれが楽しくってくっついて行っちゃうんだけどねぇ」
これは雲行きが怪しい話かな? と一瞬思ったが、楽しそうに話す西沢さんを見て安心した。
「京都だったかな。土産物を見に行こうって、あんたのお父さんが俺を土産物屋が並ぶ名店街へ連れて行くのよ。『娘にお土産を買いたいけど、何買ったらいいか?』って聞いてくるから、『とりあえず名店街にはないだろう』っていったよ」
確かに、おもちゃ大好きの子供が好むものが名店街にあるのかな、と思うとクスっと笑えた。

「組合の旅行での楽しみ? やっぱり一斉休業して、みんなで出かけることかな。宴会も楽しみの一つだったね」
同じ商売をする仲間がみんなで労をねぎらい楽しむ時間って、いつまでも思い出に残るものなんだなぁ、と羨ましく思った。

現在は、団体旅行が組める定員に達しないことや、組合員の高齢化に伴って、年に一度の研修旅行は廃止され、こういった思い出話が更新されることはなくなってしまった。今やこんな旅行話が語れる方も少ない現状を寂しく思う。

昭和58(1983)年度の世田谷北部浴場組合研修旅行での記念の一枚

■ 最後に銭湯を営む上で大切にしていることは?
「ゆったりとお風呂に入ってほしい。せっかく風呂屋に来たんだから手足を伸ばして、くつろいでほしい。そのためにも他人を気遣うマナーを守ってほしいよね。最近は湯船の縁に腰かけて話している人をよく見るね。それを不快に思うお客さんもいるし、湯船に入れないじゃない。そういう時は『人にケツ向けるな』って注意する。だから、あそこのオヤジは口うるさいっていわれるよ(笑)」

西沢さんのように粋な語り口でモノ申す風呂屋のオヤジさんは貴重だと思う。見て見ぬふりをすることもできるのに、ピシャリとモノ申す姿は優しさと、ゆったり入浴しているお客様を守るためだと感じた。注意されて嫌な気持ちになる方もいるだろうが、注意するほうはその倍、嫌な気持ちを感じていることを察してほしい。

 

銭湯はお互いを気遣う気持ちとマナーを守ることによって、より良い雰囲気をお客様が作ってくれる場です。松原湯は人情熱く、厳しくも優しい風呂屋のオヤジが守る雰囲気ある銭湯でした。
(写真・文:銭湯ライター 山村幹子


【DATA】
松原湯(世田谷区|明大前駅)
●銭湯お遍路番号:世田谷区 5番
●住所:世田谷区松原2-31-12
●TEL:03-3321-4624
●営業時間:15時45分~22時
●定休日:金曜
●交通:京王線「明大前」駅下車、徒歩5分
●ホームページ:https://www.setagaya1010.tokyo/guide/matsubara-yu/
銭湯マップはこちら

※記事の内容は掲載時の情報です。最新の情報とは異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。

玄関先は夕焼けの表情に合わせていろいろな光景をみせてくれる

夕焼けの美しさを感じながら線路沿いに歩けば、松原湯の目印である煙突が見える