平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
冬の積雪による農閑期の出稼ぎでは越後杜氏、毒消し売り、角兵衛獅子、越中の売薬、火焚き番、鏡研ぎ、能登の海産物、反物行商などが有名だ。彼らは旅先での不安や団結力を信仰で補った。北陸農民の多くは浄土真宗で、北陸人特有の勤勉さと粘り強さを信仰に託した。
「東北や北関東は貧困ゆえに間引きや堕胎が常習化したが、北陸では信仰からそれらを極端な罪悪とした。その結果、農村人口は過剰となった。出稼ぎは特に人口の減少した北関東への農民の移住が盛んに行われ、同郷者同士の強い結び付きを頼る一つの要因があったのだ」(小野寺淳「北陸農民の北関東移住」より)
北陸出身者は明治、大正、昭和にかけて東京にも数多く移住した。商売を始めるものも多く風呂屋をはじめ、豆腐屋、大工、左官、酒屋につくものが多かった。さて、現在東京都の銭湯を束ねているのは、本誌の発行元でもある東京都浴場組合。この組合の歴史をさかのぼれば、明治40年11月、東京府下15区4郡にあった約1000軒で結成された東京浴場組合にたどり着く。「お豆腐屋の組合に限らず、浴場組合理事長など全国連合会会長の歴代のほとんどが越後出身者で占められていた」と民俗学者の山本通弥氏がいっておられるように、歴代の浴場組合会長には北陸出身者が多い。これには信仰を元にした出身地同士の強い結び付きが作用しているのは想像に難くない。(余談だが、お豆腐一丁の値段と湯銭は明治から昭和20年まで長らく一緒だった。どなたか理由をご存知なら教えていただきたい)。歴代会長たちは、どのように業界を束ねられ、指導体制を確立したのか。次号からはその足跡を「東浴三十年のあゆみ」(昭和55年発行)より抜粋しながら紹介していきたい。銭湯の変遷、風呂屋の修行、奉公人と部屋制度などの話を始め、歌舞伎作家の河竹黙阿弥(幼名吉村芳三郎)の生家は「湯屋株」の売買を生業にしていた、などの仰天情報をご紹介します。
東京浴場組合の歴代会長と出身地
湯銭 | 時代 | 浴場組合会長 | 出身地 |
1銭 | 明治40年 | 小沢弘清 氏 | ? |
1銭 | 明治45年 | 松崎権四郎 氏 | 東京・浅草 |
2銭 | 大正5年 | 小森助次郎 氏 | ? |
4銭 | 大正10年 | 赤塚五郎 氏(※) | 越後 |
5銭 | 昭和2年 | 田村和三郎 氏 | 越後 |
5銭 | 昭和5年 | 川村忠三郎 氏 | 能登 |
5銭 | 昭和8年 | 坂下卯三郎 氏 | 神田 |
6銭 | 昭和14年 | 田村虎太郎 氏 | 越後 |
※大正14年に全国浴場連合会結成。初代会長に赤塚五郎氏が就任
参考文献「値段の歴史No.4」
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2004年6月発行/68号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)