平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
傾きかけた銭湯を再生させ、日本一まずい居酒屋と取り組みながら日本舞踊よろしくモンキーダンスを習い始めたころ、世の中は、何か起こりそうな期待感に包まれていた。
田中角栄の登場で列島改造の幕開けが宣言された昭和47年夏、ここ相模原の農地は都会の不動産会社が頻繁に出入りし、宅地造成がハイピッチで進んでいた。
東京近郊の土地が急速に値上がりし、京王線の延長、相模川沿いの砂砂利(すなじゃり)や採石が飛ぶように売れると、平坦な田畑に大きな穴が開き、砂と砂利の山が築かれるようになった。逆に、都会からの産業廃棄物やがれきを埋め戻し、土を振りかけると、立派な宅地に変身する。
それらが売り出され、あちこちに“砂利御殿”が出現。料亭が並び、大型パチンコ店が出現するのもこのころで、怠け者も急増した。砂利道に不釣り合いなスポーツカーや四輪駆動のジープがわが者顔でほこりを巻き上げる。
そんな中、昭和48年5月に二男が生まれ、商売も落ち着きをみせ、安定期に入っていた。その年の夏も終わりに近づいたころ、5年前にお別れしたオーナー、中島さんの使いの人が東京から訪ねてきた。
「そろそろ東京へ上がって来い。長く居つくと離れられなくなる。新宿の湯屋をアンタには安心して売れる。早急に返事を待つ・・・・・・」
所帯を持って以来、初めて味わう安定した生活。これから蓄えができると思った矢先の突然降ってわいたような話で、頭の中が真っ白になる。もともと自分で望んだ“都落ち”だが住めば都、親兄弟同様、親身に協力いただいた方々がたくさん周囲にできた。わずか5年で商売も軌道に乗り、分不相応ながら踊りもかじり、心に余裕も生まれつつあった。しかし、中島のキミエおばあちゃんの言葉を思い出した。
「都落ちした人で東京へ戻った人はいない!! 一家の大事は女房に相談しなさい!!」
志を立てて故郷を捨てたのは“東京で湯屋になる”ため。それを目標にしてがんばってきたが、これ以上根を下ろすと、東京へ戻れなくなる。
過去を振り返れば、子供の誕生に合わせて何かが起こる。長男の生まれた月に相模原へ越してきて、落ち着いたころ二男が生まれたら“東京へ戻れ”だ。女房に相談すれば反対するのは目に見えているが、仕事の鬼に徹するなら実行あるのみ。壁にぶち当たったとき、女房や身内に相談しないのは悪い癖だが、“常に自身に夢と難儀を背負っていれば必ず大事に成就する”を己(おのれ)の信条としてきた。
その数年後、JR渋谷駅から歩いて5分の4階建てのビルを独自の判断で購入、出入りするさまざまな人たちから人生の縮図を見せてもらうことになる。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2001年4月発行/49号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)