平成5(1993)年に創刊した銭湯PR誌『1010』のバックナンバーから当時の人気記事を紹介します。
相模原の旧街道沿いのこの町はいわゆる昔栄えた宿場町。近くを流れる相模川のアユを追う釣り人たちの憩いの場であり、その筋の女性や宿で、かなり繁盛していたという。登記所もあり、その近在を含めて銭湯は6~7軒。温かい雰囲気を持った組合に仲間入りさせていただいていた。
昭和46年、当時の組合長より「息子の嫁を頼む」との依頼を受けた。早速、縁続きで宇都宮の同業者のお嬢さんとの話がまとまったが、仲人が決まらない。
しかるべき人にお願いしたいと考えていたが、双方より「あなたから労をとっていただきたい」という強い要望を受けた。そんな重責など考えられるわけもなかったが、逃げ切れなくなってしまった。
切羽詰まって女房に相談したら、
「ご両人を一生お世話できるならまだしも、今の私たちにはできぬ相談です。それに私は身重なんです。ご両人たちと同年代で人生訓などできる側じゃないですよ」ときた。
「そんな俺たちも人様からお世話になっているじゃないか」
傍らから女房の母が割って入り、
「せっかくのご両家の祝い事に2人でもめていないで、お世話できるときはやったほうがいい。1人欠けても仲人はできない。何事も経験。望まれたときはやるべきだ」と助け舟。女房が折れ、渋々引き受けることになった。
ご両家を訪ね、祝い品を渡したり、返事を持ち帰ったり。日々の打ち合わせや花嫁さんからの調度品の数々を確認し記帳したりと、おのおのの実家の仕切りに従って事を運ぶ。
“仲人をするとゲタが一足だめになる”という例えよろしく、仲人の務めはメッセンジャーボーイだ。
私たちが世帯を持ったとき、労をとっていただいた三福会館のオーナーご夫妻の姿が思い浮かんだ。“あの時のうれしさをこのお2人に返そう”と当日、少々お腹の出っ張りが目立つ女房と式場に向かった。ご両家のお祝い客もぞくぞくと集まってくる。花嫁さん側には東京の浴場経営者が多数見えた。
「あなたに身内の娘のことでご厄介になるとは思ってもみなかった。今後ともよろしく頼みますよ」
次々と労に対するお礼を受ける。
ご両家お身内だけの固めの式も終わり、披露宴に。お2人の紹介も優等生ぶりを作文通り澄まし顔で読み上げたが、納得する人あり、お互い顔を見合わせニヤッとする人ありで、結構複雑な役割である。
それもつかの間、乾杯が終わり祝宴に入ると一気に暇になった。女房のほうは花嫁さんの衣装替えで忙しい。祝い客と向かい合って1段高いところでポツンと1人で冷めた酒を飲む。
“頼まれ仲人”ならそれっきりだが、今後、山あり谷ありだろう。こんな経験も早めにさせてもらったが、後のち何かの役に立つのだろうか……。
【著者プロフィール】
笠原五夫(かさはら いつお) 昭和12(1937)年、新潟県生まれ。昭和27(1952)年、大田区「藤見湯」にて住み込みで働き始める。昭和41(1966)年、中野区「宝湯」(預かり浴場)の経営を経て、昭和48(1973)年新宿区上落合の「松の湯」を買い取り、オーナーとなる。平成11(1999)年、厚生大臣表彰受賞。平成28(2016)年逝去。著書に『東京銭湯三國志』『絵でみるニッポン銭湯文化』がある。なお、平成28年以降は長男が「松の湯」を引き継ぎ、現在も営業中である。
【DATA】松の湯(新宿区|落合駅)
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今回の記事は2000年12月発行/47号に掲載
■銭湯経営者の著作はこちら
「東京銭湯 三國志」笠原五夫
「絵でみるニッポン銭湯文化」笠原五夫
「風呂屋のオヤジの番台日記」星野 剛
「湯屋番五十年 銭湯その世界」星野 剛(絶版)